KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編7

 英語にKeep in touch(キープインタッチ)という言葉がある。連絡を取り合うという意味だ。KAZが、英国を離れる際に、多くの人がこの言葉を発した。実は帰国したKAZにとって一番悩ましい問題がこのことだった。ただでさえ英語の苦手なKAZである。聞くのも話すのも苦手なのだが、書くとなると更に文法力が必要になる。KAZが英語を苦手としているのは、まず頭の中が日本語すぎるのだと思う。だから今現在でもコンネットの翻訳機能を使っても完璧な英訳にはならないのだ。その当時は便利な電子メールだってありゃしない。だから手紙になるのだが、自力でなんとか近況などを書きだそうとは試みても、明らかに変な英語にしかならなかった。頑張ってクリスマス・カードだけは書いてだした。それが精一杯だった。それも5年と続かなかった。 

日本でバブル景気が始まったのがKAZが帰国した1986年。絶頂を迎えていた1989年には日経平均株価が3万8千円を超えた。1990年なると会社の2代目の社長を17年務めたKAZの父親が急遽社長を辞めて会長になると言い出した。なにやらその頃、東京から会社にやってくる若手のデザイナーやバイヤーのファッションや言動について行けないと感じていたらしい。KAZはまだ32歳。社長にするには、若すぎるし、まだまだ経験が足りてないと考えた父は、長年専務職で父を支え続け補佐をしてきた、義理の弟を社長に据えることにした。つまりKAZの義理の叔父にあたる人である。叔父が社長に就任した初年度、会社は創業以来、最高の売上と利益をたたき出した。しかしそんな中、浮かれ続けたバブル景気も政策の錯誤などもありゆっくりと限界を迎えるのであった。1991年からはその崩壊が始まっていた。

 その1991年9月。KAZの会社は祖父が日本軍の要請を受け、宮城県仙台市にて前身である宮城工業を創業したのが1941年であることから、ちょうど節目の50年目を迎えることになった。専務となっていたKAZに創業50周年の記念事業に取り組むよう厳命が下った。
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叔父が大切にしていたのは人を育てること。その為に、社員たち向けの講演会を開くことという条件であった。その他に何をやるのかはすべて任された。そこでKAZは、これまでの集大成と今後のビジョンを示す意味で50周年記念個展の開催とミニミニ自主映画を公開することとした。すべての記念事業のテーマを『和創良靴』とすることに決めた。『和』には日本らしさと社員の団結という意味が込められていた。
 

取引先や日頃お世話になっている近所の住民やらを招待し、開催された個展には、これも叔父である社長の提案で『BASIC35』という新開発の商品が並べられた。これは靴の長さと幅が7×535とサイズバリエーションを展開した商品である。(現在の当社の代表的ビジネスに成長したカスタムオーダーを開発する際のヒントになった。)自主映画の上映では、今後コンピューター(CADやCAM)を使った生産が主流になって行くという提案を社員が寸劇的に演じたものに仕上げ、笑いを入れながら今後のビジョンを示せた。

 来ていただいたお客様にも喜んでいただき記念事業もひと段落と思っていた矢先、一本の電話がなった。

 当社一番の取引先からの電話だった。

 「ここのところ、売り上げが急に落ちて、在庫が増えて倉庫がいっぱいなんだ。」

 「申し訳ないが、生産調整をするので、来月1ヶ月の仕事の発注が出せないんだ!」

 

バブル経済崩壊し、不況の大波が、当社に押し寄せてきた瞬間である。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編6

帰国後のKAZの話を続けます。

ファクトリーショップでのオーダーの商売での失敗などを経験しながら、今後の会社の将来のことを考えながらも、通常は目の前の仕事に追い立てられるKAZであった。その頃の日本はバブル経済に踊らされ、最盛期を迎えていた。会社の経営状態も万全でもちろん下請けの仕事も順調そのもの、OEMの仕事の中でもゴルフシューズの受注が好調で売上全体の3割までになっていた。その当時はまだ革底のクラシックタイプが主流だったのである。KAZの会社では、ゴルフ用品販売大手のカタログの靴のページのトップを飾る高額な靴の多くを製造していた。価格は5万円程だ。そして次なる要求は、いかに高い靴に仕立てることが出来るかであった。なのでウミガメの革(ワシントン条約で制限)を使って10万だとかオーストリッチで30万~50万とか意味もなく高いものを作ることになった。何故か、土地を転がして莫大な利益を得た客が商品を見もしないで「一番高いものをくれ」と言っていたからだ。そんな風に日本全体がバブル経済に踊らされていた時代である。

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この時期は、洋服にしろ靴にしろ金額もさることながら量的にも売れた時代だ。バーゲンになれば、一人で5足も6足も買っていく。『足が何本あるんですか?』『もしかして靴屋さん?』と言いたくなるほど皆が、平気で買っていく、まさにバブル経済だったのだ。

この頃は、円高の影響で日本人はブランドものや高級品を買い漁っていたので、海外からは、お金持ちの国日本は重要な輸出先と目されるようになっていたのだ。靴業界の展示会も派手に行われており、ヨーロッパ各国からの出展があった、幕張メッセで行われた総合展に英国メーカーのコーナーが作られることになった。バーカー社の靴の輸入に一役買うつもりになっていたKAZは、勇んで駆けつけ会期中は、終日バーカー社の小間で手伝うことにした。英国からは、バーカー社をはじめ、トリッカーズ社、チーニー社、サージェント社、などが出展しており、KAZは英語もろくに出来ないくせに各社の通訳までしなければならなかった。残念ながら、会期中バーカー社では、1足も注文が取れなかった。原因は、為替の影響で大分安くなっているとはいえ、やはりバーカー社の靴はまだ価格が高かった。まだ高級靴といえばイタリア製のブランドもので英国製ので名前が知られているとすればチャーチ程度、本格的な靴の需要はあまりなかった。但し、ファッションとしての感性に磨きをかけているセレクトショップのバイヤーなどは、トリッカーズの小間に押し寄せ、比較的価格のこなれているチーニーやサージェントの靴には注文を出していった。KAZは、この結果に長い間、提携によるブランド生産をしてきてそのブランドを広めることの出来なかった我が会社の責任と肩を落とすのだった。

 

補足 この英国からのセールスマンの滞在中、アテンドをする立場として、夜の食事の場所などのも案内することになった。考えた末、一日目はしゃぶしゃぶ、二日目は焼き鳥にした。英国滞在中に英国人の味音痴ぶりには辟易していKAZなので、「なんだこれ?食べられるもんじゃない!」とか言い出すんではとハラハラしていたが、両方とも大好評だった。彼らはその後も何度か来日したが、毎回同じところに連れていって欲しいとせがまれるほどのお気に入り料理となった。

また、彼らに驚かされるのは、そのタフネスぶりであった。60歳前後の面々なのだが、靴のサンプルの入った大きいスーツケースを2個と滞在中の私物の入ったこれまた大きいバッグを肩から掛けて、どこにでも自ら運んで移動するバイタリティーがあった。体力に自信のないKAZは、「このぐらいでないと世界では戦えないな!」と感じた瞬間であった。

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編5

350pxzunftwappensvg_3 ヨーロッパには、ギルドと呼ばれた商工業者の職業別組合がありました。古く英国ではその点で、靴を作る人の呼びかたとしてコードウェイナー(Cordwainer)とコブラ―(Cobbler)の2種類の分け方をしていたようです。どう違うのかというと前者は新しい革から新しい靴を作る権利を有している人たちであり、後者は靴の修理を主な仕事にしており、もし作る際も使い古した革、つまり何かをばらした革などなら靴を製造しても良いという制限をつけていたらしいのです。(確かではありませんが、職人たちの権益の匂いがします)

ドイツのギルドの紋章で左上が靴屋



今は別の学校に吸収される形で閉校されてしまいましたが、ロンドンにはコードウェイナーズ・テクニカル・カレッジという名の、靴の学校がありました。これまた今は靴の仕事は止めてしまったのかパトリックコックス(この人の靴好きでした)や今も現役で活躍しているジミー・チューなどの靴のデザイナーたちを輩出しています。

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KAZが英国に渡った頃にヨーロッパに靴の勉強に行く人がいるとすれば、やはり靴メーカーの社長の子息がいる程度でした。KAZの前にやはり英国のどこかで靴を学ぼうとした人は、どうやら靴の勉強は途中で止めてパンのおいしさに惹かれパン屋になった人がいるとの話があります。つまりその当時までは珍しかったのです。

ところがその後、状況は一変しました。その先陣を切ったのがギルド・オフ・クラフツを主宰するかの有名な山口千尋氏です。彼はなんとKAZの帰国した1986年に英国に渡り、1987年からコードウェイナーズで学んだあと1991年までの5年間、英国に滞在して靴工場で働きながら学び、最終的には日本人初のギルド オブ マスタークラフツメンツという称号まで取得した方です。靴メーカーの息子とかではなく、自ら靴作りという職業に、それも若い時から目標を定め、着々と歩みを進めて来た方です。(KAZとは格段の違いです)帰国後、まだ時代が追い付いていなかったこともあり、すぐにビスポークの道に進むことはできなかったようですが、やがてその時代が到来するや否や、やはり先陣を切ってそのビジネスの展開を始めました。

彼の後に続けとばかり、同じコードウェイナーズ出身の柳町氏、大川由紀子さん、卒業後にKAZがいたバーカー社勤務の後、ジョンロブで長年パターンナーを務めている黒木氏、更には、やはり英国の靴学校であるトレシャムインスティテュート出身の福田氏、さらにイタリア・フィレンツェのロベルト・ウゴリーニ氏の元で学んだ、神戸の鈴木氏、福岡の清角氏、フィレンツェの深谷氏など数えきれないほどの若者が現在ビスポーカーや靴の作りてとして活躍しています。このようにヨーロッパで靴作りを学び凱旋帰国した人や国内で地道に腕を磨き上げた人も含め、現在の日本には100店舗ほどの靴のオーダーメイドの店が出来ました。

KAZは近い将来必ず『世界で素晴らしい靴を作るのは日本人だ!』と言われる日が来ると言います。いやもうすでに来ているのかもしれません。その理由は、日本人の職に対する考え方だと言います。

手に職を付ける。つまり技術を身に着けるということ。

決してお金が中心ではなく、情熱をかけて作った道具に美的な感性と機能性を持たせること。

その作り上げたものを通じて使用してくれる人に幸せを感じてもらいたい。

自分の一生をかけてそれらの価値を見つけようとするストイックなまでの追及心。

そういった特殊なDNAを持つ人種が日本人なのかも知れません。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編4

 Photo_2 KAZは、ファクトリーショップ『タフ』1号店の初代店長に就任した。(後にも先にもここ一店舗しかないのに1号店とはこれ如何に)

 ショップを作ったはいいが、KAZは、困っていた。当時の会社は、完全な下請けが6割で残りの4割は相手先ブランドの生産、つまりOEMである。自社商品がないのだから売るものがないのである。売るものがないのにショップを開いてしまうあたりが、おバカなKAZらしいところでもある。まずは形からなのだ。メンズライクな女性ものなら若干作ってはいたものの所謂レディース向けという商品も手掛けていない。ショップとなればお客さんの半分は女性なわけで、その人たちにも売るものがない。取り敢えず女性向けのエレガントな商品は仕入れすることにした。そして主力の男性用は、出荷前のOEM商品を一時借りてショップに並べ、出荷時期が来たら、また別の商品に切り替える作戦である。一応、店らしい格好にはなった。しかし、問題は仕入れた女性向けの商品は良いとして、主力の男性には何を売って商売をしようとしていたんだ?という疑問。

そこは、商売上手のKAZです。男性のお客さんが来たら、取り敢えず並べてある商品を見せておきながら、

「申し訳ございませんが、こちらは販売出来ないんです」とまず言う。するとお客様は

「はあ?・・・」するとすかさずKAZは、

「もしよろしければ、私がオーダーでお客様のお好みの一足をお作りいたしますが?・・・」

という商売である。つまりオーダーメイドの商売である。

 

結論から申し上げましょう!

このオーダーメイド商売の商売は、大失敗に終わりました。

・・・・「あ・あ・悲しい」・・・・

今になれば「ああ、そういうことね!」と合点もいくのだが・・・。

当時のKAZは、せっかく英国に靴作りの修業に行っていたのに、英国のビスポークという概念のことを全く知らなかった。滞在中に何度もロンドンを訪れてもいたのに、結局、セント・ジェームス宮殿前のビスポークの老舗ジョンロブ・ロンドンの前を通り過ぎたことはあっても店の中に入ることもなかった。何だろう?敷居が高かったせいもあるが、興味がないというか?別次元の店であり、学ぶべき対象とは考えていなかったのだ。但し、この店は、『英国王室の御用達でオーダーで靴を作るんだが、1足目では、ぴったり合う靴にはならず、最低3足は作らないといけない』らしいという変な情報だけは、知っていた。KAZが、学ぼうとしていたのは、工場生産の靴であり、量産靴のデザインだったりブランディングであったりが中心と捉えていたのだ。

ビスポークという語源は、『Be spoken』から来ているという人もいるぐらい、お客様と作り手がお互いに話し合いを十分行って、お互いに納得した上で、実際に靴の制作にかかると言われている。だから出来上がってから言ってない&聞いてない等のクレームが起きないようにしてあるのだ。これから作るもの=まだ形のないものを創造&想像することは、お互いに難しい。作りてはお客様の頭の中身を完全に理解するのは無理なわけでその逆もしかりなのだ。だからこれでもか!というぐらいにコミュニケーションをしないとクレームの嵐になってしまう。

もう分かって貰えたはずです。KAZの場合、このコミュニケーションを十分に行わないでオーダーの商売を始めてしまったのです。

KAZの頭の中はこうでした。お客様が来る。デザインの要望を聞く。革を選んでもらう。足を測る。すると「OK!後は私に任せてください!」と言って自信満々。価格もその当時でも破格の2万円~3万円。この価格でオリジナルの靴を作って上げてやる。でもラストを削るほどではないから、工場にあるラストの中から適当に合いそうなのを選ぶ。パターンは得意。多少足に合わなくても、それはジョンロブ・ロンドンでさえ1足目からは合わないと言ってるんですからと開き直る有様。こんなんだったんです。

「でもね!お客様の半分以上はすごく喜んでくれたんですよ!」

「その場で、もう1足作ってという人もいました!」

「でも、半分近くの人が、店で怒り出すんですよ?」

「こんな靴、注文した覚えがない!ってね!」

「こんなにカッコよく!それもこんなに安く作ってくれるところ、ありませんよ!ってね」

「これが、分かってくれないんだよなー!」

 

こんな考えだから失敗したんですよね!

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編3

Photo_2  新しい工場の落成記念セレモニーに出席し、日本に帰国したKAZは深く考えなければならない事がありった。当時KAZの会社(もちろん宮城興業のことですが)で作っていたバーカーブランドの靴は、ただそのブランド力を利用して販売に繋げようとしていただけの代物。KAZにとって、製品の出来としては、まったく満足出来る物ではなかったのである。そしてKAZが、バーカー社で作られているものに負けじと作った完全コピーを目指した靴は、完成はしたものの、結局英国で作られた製品をそのまま輸入したほうがはるかに安いということまで判明してしまったのである。この時点で、KAZの気持ちは、またしても相当落ちてしまっていたのです。夢をもって英国に渡り、苦労しながらも何とか乗り切った。そして凱旋帰国とまではいかないまでも、そこで学んだ経験と知識を宝物のようにして帰って来た。そして父親が経営する会社に新風を巻き起こそうと張り切っていた。しかし、現状を考えると『英国で学んだことがまったく役に立たないのではないか?』と考えはじめていたのであった。

 悩みに悩んだ結果、KAZが出した結論はこうであった。今後、いっさいバーカーブランドの生産と販売を取りやめること。そして今後は、英国のバーカー社で作られた製品のみを本当のバーカーブランドとして日本国内で売れるように努めること。

 たまたま、当時のKAZの父親が経営する会社の状況は大手からの下請けの仕事が順調でバーカーブランドの靴の生産や販売はわずかしかなかったこともあり、それに頼る必要もなかった。そんな訳で父親も「お前がそう思うんなら仕方がない」と簡単に同意してくれた。

 バーカーブランドの件は落着したが、肝心なことは解決していなかった。それは、今後会社が目指すべき方向のことである。

確かに現在の経営は下請け仕事が潤沢で安定している。

父は更に下請けの比重を上げた方が良いと考えているようだ。

本当にそれでいいのか?下請けに甘んじることが悪いわけではないことは分かっている。

自社商品だけで現在いる160名の従業員を養っていけるほどの実力などもちあわせてもいない。

でも万が一、親会社から仕事を貰えないような事態が生じたらどうする?

更に、以前から議論されている自由貿易に移行したらヨーロッパからの輸入品が大量に入ってくることになる。

このままの仕事を維持していくだけで、その時になって本当に戦えるのか?生き残っていけるのか?

 残念なことに、まだこの時のKAZには、これらの問題に対してどうして行けば良いのか?

という明確な答えは持ち合わせていなかった。

 但し、その答えを見つける為にも、少しだけ一歩でも半歩でも前に向かって歩き出す必要があった。

ある日、父親に切り出した。

「工場の前に小さくても良いので店を出させてください」

こうして宮城興業の工場前にファクトリーショップ『タフ』が開設されることになった。

 

To be continued

 

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