パリでの展示会

 1月22~23日、フランス・パリのホテルレッジーナを会場としてJSEPの展示会に出展しました。WFG(ワールドフットウェア)さんを主管として靴メーカー4社により組織されているのが、JSEP(ジャッパン・シューズ・エクスポート・プラットフォーム)です。今回がはじめての試みとあって各社の自信作を持ち込んでの展示会となりました。来場者にとってはなかなかお目にかかれない日本製の靴が想定外の出来だったようです。
 4月7日にロンドンで開催される靴愛好家の祭典・スーパートランクショウにもJSEPの4社が出展します。
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JSEPのパンフ


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宮城興業の隠された歴史 番外編3

このシリーズの最後に何故社名が「宮城興業株式会社」なのかのお話をします。以前から初対面の方に名刺を差し出し、「宮城興業株式会社の○○です。」と名乗ると「ああ、宮城県からですか~」から始まり、「芸能関係か何かですか?」「建設関係?」はたまた振り向いては、ほおに人差し指を走らせる(ヤ○ザじゃないわい)人までいるわけで、私は長い間、社名には強いコンプレックスを感じていました。山形で靴を製造すると決めてからつけた社名なのに何故「宮城興業」だったのか?

 結論から言うと、これを命名した創業者であり祖父の高橋明良以外に誰も知らない永遠の謎となってしまったということです。私が修行を終えて会社に入社したころには、祖父はすでに他界しており聞けずじまいでした。父や古くから働くものに聞いても誰も知りません。旧「宮城工業」→「宮城興業」=自然な流れ。としか捉えてはいなかったようです。はたしてそうでしょうか?隠された歴史に書いた通り、靴一本に絞ると決めて付けた社名です。普通ならばせいぜい「宮城製靴」または「宮城シューズ」であり、もう仙台には戻らない覚悟もあったでしょうから、そこは「山形製靴」か「山形シューズ」であるべきです。では何故「宮城興業株式会社」だったのか?私なりに独自の推理をしてみたいと思ったのです。

 推理1---祖父は、靴一本に絞るといいながら、実は将来の「山っ気」が抜けず、チャンスがあれば又なにか他の事業を起こそうと企んでいた。→→→だから興業→→→興業とは業を興すですからね!

 推理2---宮城というのは県名からではなくなにか別の意図からきているのでは?

---現代の人は天皇陛下がお住まいのところを普通に皇居と御呼びしています。ですが、古くは宮城(きゅうじょう)と呼んでいた時代があります。昭和の初期生まれまでの人はそういっていたはずです。そしてなんと疎開先の地名は山形県宮内町(現・山形県南陽市宮内)。つまり宮内庁に通じます。さらにさらに明良が靴一本に絞ったころに靴につけていたブランドこそクラウン、つまり王冠です。明良は宮城という言葉にロイヤルの香りを感じ、一つのステータスと考えていたのではということです。にしても真実はすでに闇の中。知ることは出来ません。

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赤湯の第二工場。ミシンが整然と並んでいます。

 1970年代に、CI(コーポレートアイデンティティ)なるものが大流行しました。この時期に多くの企業が名前を変更しました。横文字が多かったと思います。私が3年間修行させていただいた旧・日本製靴株式会社も株式会社リーガルコーポレーションに改めました。かねてから古臭い社名だと思っていたところですから、当社もこれにあやかろうと社員から公募したりし、最終的に残ったアイディアが「多く歩く」と「丈夫」の意からTUFFという名でした。株式会社タフコーポレーションにしようと計画しました。しかしいざ動き出してみると結構費用がかかることが判明し、それではいっぺんにやらずに出来るところからというので、済し崩し作戦に打ってでたのです。登記を変えたり広報したりせずに、まずは既成事実を積み上げる作戦です。

 最初にやったのは各人の名刺に宮城興業とタフコーポレーションのダブルネームにしたことでした。当時は送迎用のバスも所有していましたから、バスの横のネームもタフに切り替えたりしました。当時、私の苗字は高橋ですが、町うちでは宮城さんと呼ばれることが多かったのですが、次第に作戦が功を奏し、タフさんと呼び止められるようにもなってきました。今なら電話の応対で「タフコーポレーションです。」と言っても間違い電話だと思われないほどに浸透したなと思っていた頃、突然反対運動が起こったのです。20代の若者たちからの「宮城興業」の社名のほうが重々しくて良いという意見です。

 私ははじめ耳を疑いました。あれほどコンプレックスを感じていた社名です。世代が違うと、こうも感性が違うものかと。その後、しばらくの時間があり、当社がオーダーのサービスを展開し、当社最高級の商品にMIYAGIKOGYOの名を冠したものを上梓するに及び、私もつくづく「宮城興業」という社名の由来とそこに隠されたなんらかの感性を考え始めたのです。

いまやグローバルの時代になり、その名を残したのが本当に良かったと思える日が来るのを・・・。

 

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宮城興業の隠された歴史 第十七話

 戦後のどさくさからようやく落ち着きを取り戻し、物資が豊富に出回りはじめた昭和25年頃には、皮製品も統制解除となった。明良はかつて様々な経営に関わっていたが、そのほとんどを失ってしまった。これを機会に心機一転、靴一本に絞ってそれに没頭するようになる。昭和27年11月。旧宮城工業の社名を「宮城興業」とし新たに株式会社を設立したのだった。

 ----------何故社名を変えるにあたって、「工」の字を「興」にしただけだったのか?この件については、別の機会にお話ししたいと思います。---------

 随分と長いこと当社の創業者である私の祖父・高橋明良(アキラ)の話を続けてまいりました。もういい加減飽きたという声が聞こえてまいります。このあたりでこの話は終えたいと思います。これを書いた一番の目的は、この創業に至るストーリーを次世代を担う当社の若手社員にも知っておいてほしいと思ったからでした。波乱に満ちた明良の創業までの経緯(いきさつ)です。これまでのお話は私の生まれる前の話です。地元の新聞に「社長一代」と題され連載されていたものから抜粋しております。

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 この後、つまり私が実際に知っている明良は、私にとっては好々爺的な人でありましたが、やはり明治生まれの堅物と思われていた方が多いはずです。トレンドとはかけ離れた山形の地で、靴の製造だけで経営を続けるのは大変だったと思います。途中でオリジナルの製造をやめて大手メーカーの下請けに転じたのも納得できます。最盛期には250名の従業員をかかえ、紳士靴では全国6位の生産量を上げていました。オイルショックなどの経済状況激変のなか、倒産寸前の苦境にもなんどか直面しているようです。事業のかたわら、よそ者(宮城県から来た)だったことを意識してか、町のことや地区住民のための様々な活動にも精をだしていました。町議会議員を務めた後、今から51年前、南陽市が誕生する際に行われた、第一回市会議員選挙に立候補。間違いなくトップ当選と噂されたのにもかかわらず、結果は次点での落選。私は、失意を感じながらも泰然と立っているその姿を間近でみておりました。健康には人一倍気を使い、西式健康法を取り入れ、木の枕にベニヤ板の布団、温冷浴、金魚運動・毛官運動、さらには朝に牛乳2合・胚芽飲料2合・クロレラに人参のすりおろしに蜂蜜といった食事。健康の為なら死んでも良いと現代の健康オタク以上の配慮を行っていた明良でありましたが、昭和57年1月20日、かねてより体調を崩して入院していたところ大動脈破裂により78年の生涯を閉じたのでありました。

とっぴんぱらりのぷう。

 

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宮城興業の隠された歴史 第十六話

 前回、商工大臣より多額の融資が受けられたところまでお話ししたが、その時の話でこんな逸話が残っている。

-------第一回目の資金として,当時の八百万円が地元の銀行に送金されてきた。現在の30億円ほどの価値である。支店長が飛んできて「どうやら商工省で桁を間違えたらしい」といってきたそうだ。それだけの大金だたのである。-------

 多額の融資を受けたまでは順調だったが、肝心の工場のほうが一向に進まない。以前からあった工場を改造し、小さな重油ガマを使ってタイルを製造してみた。だがその結果は散々だった。どの製品にもひびがはいり、輸出どころか、使用に耐えられない物しか出来なかった。そこに商工省仙台支局から係官が調査にやってくる。明良は困った。タイル1枚出来上がっていないのに輸出実績などあるはずがない。「いま一千万円のプレスと七百万円のカマを発注している。到着次第に大量生産に入る計画だ」と説明してその場は逃れた。

 やはり、素人の悲しさであった。明良には製材業もタイル製造経営はの出来なかった。ただ残ったのは多大な赤字だけであった。運の悪いときはどこまでも悪がつきまとう。次には国税局の査察が入った。一千万円の脱税の疑いがあるというのだった。このころ明良は、まだ仙台にゴム会社、ホテル、出版社の3社の経営に首を突っ込んでいた。その全てが調べられた。しかし脱税はしておらず証拠も一切見つからなかった。だがこの件の影響で銀行からの信用を失い、仙台の3社の経営権をすべて譲らなければならなくなった。タイルのほうも依然うまく行かず、冶金課を卒業した次男に衛生陶器を作らせようと日本建材工業の看板を日陶興業に改めた。つまりタイルをあきらめ便器の製造をはじめたのである。白色の便器を製造しているのは東北ではめずらしかった。月産3,000個の生産量をあげたが、思っていたほどの需要がなくやむなく閉鎖となった。結局、丸裸になった明良。多額の借金と靴工場だけが残ったのだった。

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宮城興業の隠された歴史 第十五話

 明良は工場前の土地8,250平方㍍を革靴150足で買った。ここに日本建材工業の製材工場を建てたのである。原木を山からきりだして、この工場で製材した。経営は思ったほどかんばしくなかった。

 ところが山から切り出してくる原木に白石がついてくるのが明良の目にとまった。珪石(ケイセキ)である。地質学者に問い合わせたところ、この付近一帯には石英粗面岩(流紋岩)」や長石もあるという。昔この地では焼き物を作り米沢の殿様に献上していたこともあるという。知人にタイルを製造している人がおりこの珪石を使えば原色のりっぱなタイルが作れるという。石のイの字も知らなかった明良であったが、こんどはタイルの製造をはじめることになった。

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山林を下見にいった際の写真

前列左から2番目が明


 技術者を呼んで試作をしたり、山形工業試験場に分析を頼んだり、サンプルを作ってみた。実にすばらしいできばえであった。さっそく東京の高島屋に行き、インドのバイヤーにみせたところ「これはすばらしい。出来たら契約をしてもいい」と折り紙をつけてくれた。明良はこれはいけると心を強くした。

 しかしタイルを製造するには当時一千五百万円もの資金が必要であった。商工省(現・経済産業省)が貿易として必要と認めたときは国が融資するという情報を得た明良は、設計書や必要書類を持って直接商工省に乗り込んでいった。約束も取り付けないで商工省に乗り込み、いきなり大臣に会わせろといっても無理な話である。まして戦後まもない時代で多忙を極める大臣が、片田舎の名の知れない人に会うはずがない。明良は根性とねばりと毎日きまった時間に日参した。

 二週間もすぎたころようやく面会がゆるされた。明良は机の上に図面と石と土と製品をひろげた。大臣は物も言わずに「貿易資金として一千五百万円を融資する」という書類に印を押したのである。明良は声をあげて泣きたいほど喜んだ。今の価値にすると50億円ほどの大金だった。

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