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2008年2月

サドルシューズ

カスタムメイド担当です。

今後は、出来上がった靴の画像などをドンドン掲載して参りますので、
ご注文の際の参考にしてみてください。

今日ご紹介するのはサドルシューズです。

Cimg3302

使用している革はサドル部分がOI-13(オイルレザー ダークブラウン)、その他はNU-18(ヌバック ベージュ)です。革のコンビネーションは、最も手軽にオリジナリティを出せますのでお薦めです!

ソールにはレンガ色のものを使用し、アイビーファッションを意識した仕上りですね。ベージュのヌバックを使った靴は、「ダーティーバックス」などとも呼ばれ(もともとは鹿革を指します)、白ヌバックの靴(ホワイトバックス)と同様、レンガソールとの相性が非常に良い素材です。

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宮城興業の隠された歴史 第三話

その当時、禁じ手ともいえる荒業(アラワザ)
「酒のディスカウント・ストア」で勝負に出た明良であった。

◆◆私の祖父であり宮城興業の創業者・高橋明良◆◆
そもそも明良とはどんな男だったのだろうか?

 明良は明治35年11月3日、まさに文化の日というよき日に宮城県石巻市で、海産物問屋をしていた彦兵衛の長男として誕生した。だが明良が生まれたころから店の経営がかんばしくなくなり、3歳のときついに店を閉めてしまった。そのころ明良はおじ(父の兄)の彦太郎に養子としてあずけられていた。
 両親はその後、北海道に仕事をみつけて出て行き、養父は警視庁の巡査を志願して東京に出て行った。もちろん明良も一緒である。このため小学校は東京の千駄ヶ谷小学校に入学したが、巡査の転勤がはげしかったので、小学校だけでも5回もかわり、卒業したのは浅草の富士小学校だった。それからお茶の水の京華中学を卒業し、帝大(いまの東大)の予科である第一高校に上位で合格した。なにせ兄弟もなく、両親も遠く離れているさびしさを勉強でまぎらしていたし、養父もりっぱな人に育てようと学問にはとくにうるさかった。養父は法科をすすめてていたが、明良は文科を選んだため、意見が対立して、二人の間にはみぞができてしまった。ちょうど1学期の終りごろだった。いっそのこと重くるしい養父の家をとびだして大陸にいこう!と大志を抱いて家をとびだしてしまったのである。
 そのころ実父は北海道から石巻市に帰って酒の販売をはじめていた。実母なつは明良が9歳のときに他界し、母の妹を継母に迎えていた。
 東京の養父の家をでてきた明良は石巻にきて荷物をまとめ、汽車にのって大陸へ出発しようとしたとき父にみつかり、むりやり家に連れもどされてしまった。そしていやおうなく家業を手伝わされることになった。
 それからまもなくして養父だった彦太郎が警視庁を退職して石巻に帰って来たのである。退職金を資本にゴムグツの販売をはじめるのだという。大正10年、当時としてはゴムグツははじめてだった。おじは「これからはゴムグツが時代の要求であり、人のやらない商売をすれば必ずもうかる」と自信をもっていた。ゴムグツはおじの想像以上の売れ行きをみせた。わずか3年の間にりっぱに店を改造し、支店も3ケ所にひらくという破竹の勢いでのびていった。
 明良は景気のよいおじの商売にまけまいと酒の販売に力を注いだ。関東大震災のあった大正12年、明良は1年志願兵として歩兵第四連隊に入隊した。その年の9月13日、家の大黒柱である父が突然死んでしまった。このため家では明良の除隊をいまやおそしと待っていたのである。家には継母のほかに弟の正(当時11歳)を頭に兄弟5人がいた。いちばん末の慶子はまだ乳飲み子である。明良は軍隊の教練などで家族の将来を考えている余裕もなく軍務についていた。こうして翌年の4月、ようやく満期除隊となった。家に帰った明良の前途に待ち受けていたのは生活苦と不況のあらしであった。
【昭和40年 産経新聞山形版掲載 社長一代より】

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第二話

明良のアイデアからなる「酒屋の新しいビジネスモデル」
「ディスカウントストアー」への鞍替えは一見順調かにみえました。
掛け売りだったものが現金収入に変わったことで
初めのうちは仕入れもスムーズに廻っていたのです。

しかし、その区域の同業者からの妨害は執拗でした。
石投げ行為はその後も続き、さらには造り酒屋に圧力をかけてきました。
おかげで区域内の有名所の地酒は仕入れが出来なくなってしまいました。
仕方なしに県境を超え、山形まで行き、馬車に酒樽を載せて
運ばなければならなくなってしまいました。

この頃の明良の店で売っていた酒は「水っぽい」という噂があったようです。
祖父がしていた商売で偽装の疑いがもたれているわけですから
私もそのままに捨ておけないと何度か調査をしてみました。

子供ながら店を手伝わされていた明良の長男、つまり私の父の記憶では
店の裏で酒樽に水を足す明良の姿を目撃したことが有るとか?無いとか?
自分でも足したことが有るのやら?無いのなら?
親戚が集まった酒宴で昔話しに花が咲き出すと
「水を足すことを業界用語では『玉を入れる』と言うのだ」と
不敵な笑いを浮かべては微妙な証言を繰り返しております。

醸造用アルコールも添加されていない米100%で造られた
「山形のおいしい地酒」をこよなく愛している私には
水増しされたお酒の味は知る由も無く、あったら絶対に飲まないと思いますが、
明良の店はなんら影響も無く繁盛を続け、
ニュービジネスは比較的順調に推移していたようであります。

 当時日本は世界恐慌、続く欧米のブロック経済化のあおりをうけ
 昭和6年には満州事変の勃発
 ついには昭和12年7月7日の盧構橋事件を発端に
 日中戦争へと突入。
 ますます孤立化し物資が極端に不足していた日本は
 国家総動員法を制定し戦時統制経済を導入する。

統制が始まるとほとんどの店の店先からほとんどの商品が姿を消すこととなりました。
明良の店も例外ではありませんでした。
では本当に商品はなかったのか?
いや明良の店だけは例外だったようです。
統制の下では、昨年の実績に基づいて配給が行われていました。
明良の店は、現金商売に変えたことで
薄利ながら相当量の物品を販売していたようです。
なので他の店の数倍いや数十倍の商品を扱うことが出来たようです。
しかし、それを素直に店先にならべるほど人の良い明良ではなかったのです。
店先では「ない!ない!」といってお客を帰していながら
事情を知った人には裏で足元を見て商売をしていたのでした。

この時代のどさくさにまぎれ
明良は当時のお金で5万円ほどを溜め込んだと言われています。

 こんな人の孫でありながらこんな悪知恵は持ち合わせていない私でありますが、
 親戚が集まったおりに、この祖父の遺伝子を一番多く受け継いだ人間はということになると
 一斉に私を指差します。
 トホホ・・・

To be continued.

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