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宮城興業の隠された歴史 第三話

その当時、禁じ手ともいえる荒業(アラワザ)
「酒のディスカウント・ストア」で勝負に出た明良であった。

◆◆私の祖父であり宮城興業の創業者・高橋明良◆◆
そもそも明良とはどんな男だったのだろうか?

 明良は明治35年11月3日、まさに文化の日というよき日に宮城県石巻市で、海産物問屋をしていた彦兵衛の長男として誕生した。だが明良が生まれたころから店の経営がかんばしくなくなり、3歳のときついに店を閉めてしまった。そのころ明良はおじ(父の兄)の彦太郎に養子としてあずけられていた。
 両親はその後、北海道に仕事をみつけて出て行き、養父は警視庁の巡査を志願して東京に出て行った。もちろん明良も一緒である。このため小学校は東京の千駄ヶ谷小学校に入学したが、巡査の転勤がはげしかったので、小学校だけでも5回もかわり、卒業したのは浅草の富士小学校だった。それからお茶の水の京華中学を卒業し、帝大(いまの東大)の予科である第一高校に上位で合格した。なにせ兄弟もなく、両親も遠く離れているさびしさを勉強でまぎらしていたし、養父もりっぱな人に育てようと学問にはとくにうるさかった。養父は法科をすすめてていたが、明良は文科を選んだため、意見が対立して、二人の間にはみぞができてしまった。ちょうど1学期の終りごろだった。いっそのこと重くるしい養父の家をとびだして大陸にいこう!と大志を抱いて家をとびだしてしまったのである。
 そのころ実父は北海道から石巻市に帰って酒の販売をはじめていた。実母なつは明良が9歳のときに他界し、母の妹を継母に迎えていた。
 東京の養父の家をでてきた明良は石巻にきて荷物をまとめ、汽車にのって大陸へ出発しようとしたとき父にみつかり、むりやり家に連れもどされてしまった。そしていやおうなく家業を手伝わされることになった。
 それからまもなくして養父だった彦太郎が警視庁を退職して石巻に帰って来たのである。退職金を資本にゴムグツの販売をはじめるのだという。大正10年、当時としてはゴムグツははじめてだった。おじは「これからはゴムグツが時代の要求であり、人のやらない商売をすれば必ずもうかる」と自信をもっていた。ゴムグツはおじの想像以上の売れ行きをみせた。わずか3年の間にりっぱに店を改造し、支店も3ケ所にひらくという破竹の勢いでのびていった。
 明良は景気のよいおじの商売にまけまいと酒の販売に力を注いだ。関東大震災のあった大正12年、明良は1年志願兵として歩兵第四連隊に入隊した。その年の9月13日、家の大黒柱である父が突然死んでしまった。このため家では明良の除隊をいまやおそしと待っていたのである。家には継母のほかに弟の正(当時11歳)を頭に兄弟5人がいた。いちばん末の慶子はまだ乳飲み子である。明良は軍隊の教練などで家族の将来を考えている余裕もなく軍務についていた。こうして翌年の4月、ようやく満期除隊となった。家に帰った明良の前途に待ち受けていたのは生活苦と不況のあらしであった。
【昭和40年 産経新聞山形版掲載 社長一代より】

To be continued.

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