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2018年1月

宮城興業の隠された歴史 第十三話

 敗戦で従業員も周囲の人も、それまでの努力がいっぺんに吹っ飛び、放心状態になっていた。気力が失せて従業員だけではなく重役のものまで、早々と仙台に帰るものもあらわれた。明良は『従業員といっしょになって悲しんでいてもはじまらない。こういうときの経営者の態度こそ社の運命を左右するものだ」とふんぜんと立ち上がった。早速仙台の陸軍被服課支所に出向き、現在自分が預かっている軍靴用の資材すべてを払い下げてくれるよう交渉した。45年は困らないだけの資材を格安の20数万円で買い取ることが出来た。

 しかし材料はあってもすでに軍靴は必要ではなかった。この時代まだ一般用の靴もそれほど普及しておらず需要も見込めなっか。引越しの際に多額の借金もあり、閉鎖することも出来なかったが、どんな靴を作ればよいか見当もつかなかった。そうこうしている間に日増しに退職希望者が出てほとんどが仙台にもどることになってしまった。わずかに残った人たちと明良は細々と靴作りを再開したのだった。

 まもなく山形にも米軍が進駐してきた。もし材料が見つかり没収されてはたまらんと警戒していたが、隣町の赤湯の米軍キャンプからやってきたアメリカ兵たちはスキーブーツはないか?落下傘部隊用のジャンピングシューズはないか?という要望だった。そんな靴はあろうはずもない。それどころか足のサイズがまったく違っていた。しかし、そこで明良は考えた。『もしかしたら米軍用の靴の製造が出来るかもしれない?』と。ただ仕事を続けられればという思いの明良だ、怖いもの知らずであった。早速仙台の米軍司令部に乗り込んで『赤湯のキャンプで靴がないといってきたが、ただで接収されては困る。代金を払ってくれるならいくらでも隊員にあう靴をつくりましょう!』と交渉したのだ。

 司令部では、さっそく赤湯キャンプに電話をいれ『靴が必要なら、高橋さんと相談してつくれ!』と連絡してくれたのであった。

こうして明良は、赤湯キャンプだけでなく山形の東根市の神町キャンプにいる米軍兵の軍靴を製造することになったのである。

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手で靴の釣りこみをする職人たち

To be continued.

 

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宮城興業の隠された歴史 第十二話

 疎開先は山形県の宮内町漆山(現・山形県南陽市)の操業を停止していた製糸工場であった。

---余談になるが、この地区は明治から昭和初期にかけて製糸業が盛んで最盛期には17の製糸工場があり、3,400人にも及ぶ職工さんが働いていたという。製糸業といえば女工哀史を連想しがちであるが、この地区の女工さんたちは、技術力も高く給料もそれなりで女工哀史とは無縁だったといわれている。さらに余談だが、終業時間になるといっせいに工場から出てくる女工さん目当てに、近隣の若い男性が待ち構えていたということで一時は現在の東京の原宿程度の賑わいを見せていたという。ここで生産されていた絹糸は羽前シルクという最高級ブランドで海外から多くのバイヤーも訪れていた。----

 この工場にすべての荷物を運びいれると、明良はさっそく235千円を投じて靴製造の為の準備に取り掛かった。大阪からはクギを作る機械、広島からミシンの針を作る機械、秋田からは鉄線を作る機械、さらには木型を作る機械や当時洋靴製造機と呼ばれているものなどをわずか1ケ月ほどで導入したのだった。従業員も第二弾・第三弾の仙台からの疎開組と地元での新採組とあわせて250人ほどになっていた。いよいよ山形での製靴作業が開始されるほこびとなったのである。

 ところが、それも束の間、たちまち軍靴を作ることは叶わなくなる。そのことを知らされたのは、昭和20815日。日本はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏に応じた旨の玉音放送がラジオから流れた。日の丸のはち巻を頭にしめて軍靴製造の準備に協力してくれた従業員とともにラジオの前に立ち尽くした。

そこには、ただ涙を流す明良の姿があった。

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スーツと靴が白いモダンな姿の明良

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第十一話

 この時の空襲で本社第一工場は焼けつくした。機械だけが林のように焼け残っていた。幸い第二工場は難を逃れた。明良はさっそく工場の疎開にとりかかった。トラックを動かすのにもガソリンがなく、被服支所から緊急用としてドラム缶8本分のガソリンを手配してもらった。第二工場とその他の工場から機械や資材を運び出すとなんと貨車で64両分にもなった。この貨車で明良をはじめ8ケ月であった身重の妻はぎのや第一弾の疎開組の従業員たちの山形への引越しが始まった。県境を越え山寺駅に到着したころ、一同ホッと胸をなでおろしていた。どこで調達して来たのであろう。はぎのは、大きなおはちのごはんをおにぎりにして従業員たちに与えていた。蒸し暑い真夏の駅構内である。流れる汗をふきながら、この時に食べたおにぎりの味を明良は生涯忘れなかった。

 

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当時の宮城工業の役員たち

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第十話

 その当時、どれだけの日本人が彼の大戦に勝てると信じていたのであろうか?海戦から1年足らずの176月には、ミッドウエー海戦により大打撃を受けた海軍、19年頃には更に戦局は悪化し、海軍用の靴の製造は激減した。製造のほとんどを陸軍用の軍靴が占めるようになっていた。そのころ明良は足しげく陸軍被服課に通うようになり、陸軍からも全面的な協力を要請されて軍隊であれば中佐待遇の「奉任官」を命ぜられ、徴用権も認められたという。そんな中、仙台にいては空襲にあうおそれがあるから山形に疎開するようにとの命令がくだった。
 仙台から奥羽山脈を越えて山形に工場を移すことは相当困難な話であった。なんとか近隣でかつ安全な、出来れば太平洋沿岸を探した。だが適地を見つけて軍にかけあったが承諾が得られなかった。軍からは皮革の手配も万全でクギや木型、ミシンなどの部品類、更には必要とあれば機械を作る費用として60万円もの費用も保証人となって調達するからとのことであった。しかし、株主をはじめ重役や従業員だれ一人疎開に賛成するものはなかった。そうしてもたついていた昭和204月、米軍のB29が仙台上空を旋回しはじめていた。不安を感じていた明良に軍からいよいよ6月には仙台を空襲してくるという情報を耳にした。それを聞いても幹部は疎開することに協力しようとはしなかった。明良はやむをえず一人会社を引っ越そうと決心したのであった。

 まず重要書類を山形に向けて発送した。だがときはすでに遅かった。発送2日後の69日夜、予定通り敵機が姿を現したのである。明良の情報は確かだった。第二工場の近くの社宅にいた家族たちは、明良のいうとおりにすぐ避難できるように身支度をしていた。爆弾のすさまじい音、間断なく耳をつんざく機銃掃射、市内のあちこちから黒い煙がもうもうと立ちのぼる。工場付近は逃げ惑う人で大騒ぎとなった。 明良は第二工場の前で、自由自在に飛び交うグラマン機と地獄絵のような情景をただぼう然とみつめていた。人は追い詰められた時には、大・小便は出来ないと聞いたことがあった。本当にそうなのか?急に自分で試したいという気になった。なんのことはなかった。工場と家財すべて焼け出されようとしているとき、もっと早く疎開を決断しておけば良かったという後悔の念よりも、これから自分がしっかりと舵を取り、一日もはやく靴の生産を再開しなければという思いが上回っていた。

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大戦で失ったもう一人の弟。

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第九話

 会社を作った当初、明良はあえて社長には就かず、靴製造の経験を持った人に社長になってもらっていた。明良は裏方に回り、靴のノウハウを学ぶかたわら実質的な会社の運営も行っていた。12月に大戦がはじまってまもなくの頃、この社長に就いていた男は、実は悪者で株主から預かっていた会社の金を持って逃亡するという事件が起こった。社長が逃亡したとあって明良はじめ重役連中までもが全員、仙台北署に連行されてしまった。冬の寒い時期であった。監房での寝泊りは骨の髄まで凍りつく思いであった。だが人をだましたり、会社の金を悪用したりすることは決してない明良にとっては自分は潔白でありなんら権力を恐れる必要はなかった。銀行には多額の預金もあり、知人にも絶大な信用を有していたやめ、徐々に警察も特別な扱いをするようになり、特別に旅館から布団の差し入れなどもあった。そして3週間後には社長が検挙され、事の次第が判明し、無罪放免となったのである。3週間の監房生活は明良にとって学ぶ点もあったとは思うが、この問題により、会社設立以来順調に推移していた陸軍からの仕事が信用不安のためストップしてしまった。その当時社員は340人ほどがいた。会社を再稼動するため、明良はすぐに東京に出向き、海軍省から新しく海軍の靴を製造する許可を得た。その後、何度となく仙台陸軍被服課にも足を運び、陸軍の靴の製造再開も叶うようになった。戦局が激化してくると陸軍・海軍ともに需要が増え、わずか1,2年の間に次々と工場を新設し45倍の増産をするようにもなった。明良はやる気さえおこせばなんでもやれるもんだと自信を強めていた。このころの「宮城工業株式会社」の従業員は2,000名ほどだったと伝え聞く。まがりなりのも軍需工場として扱われていたのだと思われる。

 この会社で働いていることは軍役を少しでも免れるに有利にはたらいたのだった。会社は人集めにはことかかなかったのである。

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大戦で明良は弟たちを失った。

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第八話

陸軍の靴製造は一定の規格があり、職人が思い思いに作ったものでは納入できなかった。そこで明良はまず石巻の手製業者らを集め「石巻皮革製品有限会社」を結成した。クツ屋のほうはすでに見込みがなかった為、軍靴製造に力を集中することとした。利益は少なかったが何とか生活することは出来た。そのころ仙台にも「宮城皮革製造有限会社」を結成する動きがあった。以前の酒の販売やクツ屋の経営をしていた実績が買われ、仙台に出てきてその会社を作ってくれという要請があったのである。明良は38歳であった。全国酒類販売組合副会長、県酒類問屋業組合常任理事、石巻酒類卸業組合長、石巻消防団長などの役職がり、そう簡単には引き受けられない事情があった。しかしアメリカとの戦争、つまり第二次世界大戦に突入まじかと思われた昭和16年になるともはや酒を売ることもままならなくなってきた。すべて配給制度になったのである。こうなれば酒店のほうは婦女子でも十分やっていける。明良は考えた。店のほうは家族にやらせて、この際仙台にでて自分はどこまでやれるか試してみようと。クツのことは叔父から受け継いだもので、クツ屋の経営をほんの少しかじった程度である。つまりズブの素人と同じであった。乗りかかった船だ、いちかばちかやってみようと、資本金5万円で「宮城工業(現在の興業と字が違う点については後日)株式会社」を設立した。いよいよ真珠湾攻撃で大戦の始まろうとしていた、昭和16年9月のことであった。

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戦争中の明良

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第七話

 

 有限会社「高彦商店」が設立された昭和6年といえば、昭和恐慌の真っ只中であり、日本経済は危機的な状況に陥っていたころである。しかし、明良の経営する店は比較的順風満帆であり、売り上げも順調に推移していたようである。だが9月には満州事変が勃発するなどし中国との戦争の影が静かに忍び寄っていた。昭和127月に勃発した支那事変により、昭和13年、皮革使用制限令が発令、皮革製品の販売も製造も禁止された。その後、酒造もどんどんと減らされ半減、そのままでは、どこの酒店・どこのクツ店もまったくお手上げの状態となった。

 つぶれていく商店が大半をしめていった。「高彦商店」のクツ屋部門では、ウシ・ブタ・ウマなどの統制品であった革以外の代用品を使って作った商品を細々と売って急場をしのいでいた。ところがその時、陸軍省から軍靴製造の話が持ち込まれてきたのである。『捨てる神あれば拾う神ありとはこのことであろうか?』明良は代用品のクツを手に、じっといつまでもみつめていた。

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戦役に就こうとする石巻の若者たち

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 第六話

当社創業者・高橋明良の物語を続けます。

 明良が考えたニュービジネスは、結果大きな成果をあげる事になる。初めは半信半疑だったお客たちも実際に現金買いであれば半値で買えること驚き、たちまち口コミでその噂が町中に広がった。売り上げはネズミ算式に伸びていった。問題は商品の調達であったが、売り上げで得た現金を上手く使って各地より格安で仕入れることも出来たのである。不況に突入していたその時代、薄利多売の術が消費者心理に見事にマッチした結果であった。こうして苦境にあえぎ一度は一家心中まで考えなければいけない状況から明良は何とか抜け出すことに成功した。そればかりか家族全員が遊んで暮らせるほどの利益も手に入れ、『人間死ぬ気になって一所懸命に頑張ればなんとかなるものだ』という自信を手に入れたのだった。

 丁度そのころ、明良を一時養子として向かいいれ、巡査として東京で一緒いくらしていた叔父の孫太郎が、病床に就いていた。孫太郎は退職後、故郷の石巻にもどり猟師たちには必需品だったゴムクツを売る商売をはじめており、店を3軒も持つほど順調であった。孫太郎と明良は、東京での生活の中で、一度は反目し合う関係となっていたが、お互いを認め合うところもあったのであろう。性格も似ていたのかもしれない。子供のいなかった孫太郎が病床に明良を呼び寄せると、「どうもお前には商売の才があるらしい。私に代わってクツ屋の経営もいっさいみてくれないか?」と語った。これが叔父の遺言となった。昭和66月、資本金5万円で酒屋とクツ屋をいっしょにした有限会社「高彦商店」を設立した。このクツ屋の仕事を引き受けたのがきっかけとなり、後に靴製造に本格的に進出することになったのであった。

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高彦商店の前で

To be continued.

 

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宮城興業の隠された歴史 第五話

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祖父明良と祖母はぎのの結婚式

当社創業者・高橋明良の物語を続けます。

 大正デモクラシー、第一次世界大戦中に日本にもたらした大戦景気も一段落すると絶好調だった日本の経済も徐々に翳りが出始めていた。一般の商店の売り上げも厳しい状況を迎えているころ、両親が営んでいた酒屋も明良が兵役に就いている間に父親の彦兵衛が急死。その後、継母が女手ひとりで店を切り盛りしている間に多くの客が離れ、売り上げが半減していた。明良が店を見るようになったあとも客がすぐに戻るわけでもなく、利益を得るために商品の値段を高くするなどの対策を打てば、ますます客が減っていくようになった。明良はこれを挽回しようと寝食を忘れて働いた。だが彼が無理に売ろうとすればするほど、その無理売りがたたって代金が回収できず焦げ付いてくる。終いには、家族の食事にもことかく状況になり、食べ盛りの弟や妹たちは実にかわいそうなことになってきた。一番下の妹はまだ乳飲み子で空腹になれば遠慮なく泣きわめいた。この赤ん坊の泣き声は、明良の胸をしめつけた。このままでは一家心中するしかない。そんなことを考えなければいけないほど状況は切迫していた。しかし、そのことが、『死んだ気持ちで一丁最後の賭けに出てみるか?』という気持ちを呼び起こしたのである。その賭け(秘策)こそ第一話で紹介した『座っていて壱万円儲かる方法』であった。

 当時の1万円といえば、清酒一升が150銭の時代である。清酒が実に6,660本分。何年かかっても飲みきれないほどの大金だ。誰もが注目した。掛売りが当たり前の時代に

現金購入のお客様には、

清酒1升を半額の75

味噌1貫目(3.75㌔)を半額の45

と店の商品を現金買いを条件にすべて半額でうるという暴挙にでたのだ。

 当店で買い物を続ければ一家で数年後には大金の1万円が節約出来るというのが理屈である。

 このキャッチコピーを題したチラシを地元の新聞に連日折り込んだ。と同時に仙台からチンドン屋20人を雇いカネやタイコで賑やかに触れ回った。明良の家族は、チンドン屋が来ると世間体が悪いといって家の中で息を潜めていた。同じ町の同業者は、『あの若造は店がつぶれかかったので、とうとう気が触れたか?』という噂を広めていった。さてこの明良が考えたニュービジネス、時代的には早すぎると思われる酒のディスカウントストア。果して上手くいったのか?この続きはまた次回。

To be continued.

 

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宮城興業の隠された歴史 第四話

前回の第三話アップが2008年2月なので、それからなんとなんと10年の月日が流れてしまいました。ここまで来るとさすが山形生まれの作家「井上ひさし」ばりの遅筆堂も許されないところに追い込まれ、誰も期待なぞしていないことは重々「合点承知の助」なのである。人間誰にも好不調の波、もっと言えば躁状態と鬱状態が交互に襲って来ているもので、一旦白けてしまうと書けなくなってしまうのである。また書き出したいと思い始めているということは、現在が躁の周期に入っているということなのであろう。前置きが長くなったので早速続けよう!そう当社の創業者・高橋明良(アキラ)の物語である。

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弓道を嗜んでいたころの明良

大正12年に1年志願兵として軍務に付き翌年満期除隊となって家に帰ってくる明良をいまや遅しと待ち受けていたのは、継母と畑違いの弟の正を頭に兄弟5で、いちばん末の慶子はまだ乳飲み子である。兵役についている間、大黒柱であった父がなくなっていた為、当然彼らを養っていく責任が明良にのしかかってきており、すぐに生活苦と不況の嵐が彼を襲ってくるのである。

 明良は、除隊してほどなく継母が、留守中に進めていた縁談ではぎのと結婚することになる。(はぎのはもちろん私の祖母である)

----現在の女性のいだく結婚観と当時のものは大分違うと思われます。当時の結婚は子孫繁栄であり、その子供も宝=財産であり、嫁は家での重労働である家事全般をこなす戦力であり、現在の「惚れた・腫れた」ありきとは相当かけ離れた感覚なのだと思われます。現在は結婚することも、子供を作ることも「リスク」と考えるのは全然違いますよね!---- 

そんな訳で、若干22歳の青年であった明良は、結婚などは考えたこともなかったはずだが、置かれている家庭の事情を考えると母の進めた話を断る理由は見つからなかった。

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ちなみに、明良の自伝には(残念ながら)、はぎのを一目みて、惚れたなどの類の話は登場しない。しかし、50年以上に渡って生涯連れ添った二人の事実からすれば相思相愛の関係だったことは誰も否定は出来ないだろう。事実、明良が亡くなり、法要の直会の席が盛り上がると必ず祖母はぎのの十八番はが飛び出した。その歌は「骨まで愛して」という曲であった。


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To be continued.

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横浜タカシマヤに出展

お知らせです。
明日1/10(水)~15(月)の期間で開催される
現代の職人たち展に当社出展します。

8階催事場になります。
「究極の履き心地」と言われる
当社自慢のSTリラックスはじめ靴はもちろんのこと
革製の小物もたくさんご用意しておりますので
是非この機会においでください。

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