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宮城興業の隠された歴史 第十話

 その当時、どれだけの日本人が彼の大戦に勝てると信じていたのであろうか?海戦から1年足らずの17年6月には、ミッドウエー海戦により大打撃を受けた海軍は19年ごろには更に戦局は悪化し海軍用の靴の製造は激減し製造のほとんどを陸軍用の軍靴が占めるようになっていた。そのころ明良は足しげく陸軍被服課に通うようになり、陸軍からも全面的な協力を要請されて軍隊であれば中佐待遇の「奉任官」を命ぜられ、徴用権も認められたという。そんな中、仙台にいては空襲にあうおそれがあるから山形に疎開するようにとの命令がくだった。

 仙台から奥羽山脈を越えて山形に工場を移すことは相当困難な話であった。なんとか近隣でかつ安全な出来れば太平洋沿岸を探した。だが適地を見つけて軍にかけあったが承諾が得られなかった。軍からは皮革の手配も万全でクギや木型、ミシンなどの部品類、更には必要とあれば機械を作る費用として60万円もの費用も保証人となって調達するからとのことであったが、株主をはじめ重役や従業員だれ一人疎開に賛成するものはなかった。そうしてもたついていた昭和20年4月、米軍のB29が仙台上空を旋回しはじめていた。不安を感じていた明良に軍からいよいよ6月には仙台を空襲してくるという情報を耳にした。それを聞いても幹部は疎開することに協力しようとはしなかった。明良はやむをえず一人会社を引っ越そうと決心したのであった。

 まず重要書類を山形に向けて発送した。だがときはすでに遅かった。発送2日後の6月9日夜、予定通り敵機が姿を現したのである。明良の情報は確かだった。第二工場の近くの社宅にいた家族たちは、明良のいうとおりにすぐ避難できるように身支度をしていた。爆弾のすさまじい音、間断なく耳をつんざく機銃掃射、市内のあちこちから黒い煙がもうもうと立ちのぼる。工場付近は逃げ惑う人で大騒ぎとなった。

 明良は第二工場の前で、自由自在に飛び交うグラマン機と地獄絵のような情景をただぼう然とみつめていた。人は追い詰められた時には、大・小便は出来ないと聞いたことがあった。本当にそうなのか?急に自分で試したという気になった。なんのことはなかった。工場と家財すべて焼け出されようとしているとき、もっと早く疎開を決断しておけば良かったという後悔の念よりも、これから自分がしっかりと舵を取り、一日もはやく靴の生産を再開しなければという思いが上回っていた。

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大戦で失ったもう一人の弟。

To be continued.

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