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宮城興業の隠された歴史 第四話

前回の第三話アップが2008年2月なので、それからなんとなんと10年の月日が流れてしまいました。ここまで来るとさすが山形生まれの作家「井上ひさし」ばりの遅筆堂も許されないところに追い込まれ、誰も期待なぞしていないことは重々「合点承知の助」なのである。人間誰にも好不調の波、もっと言えば躁状態と鬱状態が交互に襲って来ているもので、一旦白けてしまうと書けなくなってしまうのである。また書き出したいと思い始めているということは、現在が躁の周期に入っているということなのであろう。前置きが長くなったので早速続けよう!そう当社の創業者・高橋明良(アキラ)の物語である。

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弓道を嗜んでいたころの明良

大正12年に1年志願兵として軍務に付き翌年満期除隊となって家に帰ってくる明良をいまや遅しと待ち受けていたのは、継母と畑違いの弟の正を頭に兄弟5人で、いちばん末の慶子はまだ乳飲み子である。兵役についている間、大黒柱であった父がなくなっていた為、当然彼らを養っていく責任が明良にのしかかってきておりそしてすぐに生活苦と不況の嵐が彼を襲ってくるのである。

 明良は、除隊してほどなく継母が、留守中に進めていた縁談ではぎのと結婚することになる。(はぎのはもちろん私の祖母である)現在の女性のいだく結婚観と当時は大分違うと思われます。当時の結婚は子孫繁栄であり、その子供も宝=財産であり、嫁は家での重労働である家事全般をこなす戦力であり、現在の「惚れた・腫れた」ありきとは相当かけ離れた感覚なのだと思われます。現在は結婚することも、子供を作ることも「リスク」と考えるのは全然違いますよね!

 そんな訳で、若干22歳の青年であった明良は、結婚などは考えたこともなかったはずだが、置かれている家庭の事情をい考えると母の進めた話を断る理由は見つからなかった。

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ちなみに、明良の自伝には残念ながら、はぎのを一目みて、惚れたなどの類の話は登場しない。しかし、50年以上に渡って生涯連れ添った二人の事実からすれば相思相愛の関係だったことは誰も否定は出来ないだろう。事実、明良が亡くなり、法要の直会の席が盛り上がると必ず祖母はぎのの十八番はが飛び出し、その歌は「骨まで愛して」という曲であった。

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To be continued.

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