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宮城興業の隠された歴史 番外編2

当社の歴史を書き始めたきっかけが、10年前に上梓した宮城デン開発の説明の為だったことなど、もう誰も覚えてはいないことは確かだ。もしこのブログ読んでくれている人がいるとしてもそろそろ飽き飽きして早く正常化してほしいと願っていることも私は重々「合点承知の助」なのである。だがしかし、私には話を完結させる責務があるのです。そうでなければ、十年前に書き始めて途中で筆が進まず十年を無為に過ごした後悔の為、死ぬに死に切れないのであります。なので今回はいよいよ当社が誇る銘靴「宮城デンシリーズ」が生まれた経緯をどうしても述べなければいけないのです。

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1940年代に作られたアーミーブーツ

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 アメリカ兵の為の軍靴製造を始めるにあたり、まず米軍キャンプから1足のサンプル靴を預かることになった。明良をはじめ残って仕事をしていた工員(職人)たちは、その靴の出来を見て一同に息を呑んだ。その靴はなにか例えようのないオーラを放っていた。もちろん仙台に帰ることもせず靴作りを続けると誓った職人たちである。腕には自信があった。縫製や底付けの為のステッチなどはアメリカ製のものは荒く甘い。負けている気はしなかった。材料にしても特段上物を使用しているとも思えない。だが何故か?すぐに作れる気にはなれなかった。靴工場の経営については自信があった明良ではあるが、作りのほうはすべて職人たちに任せてある。でもそんな彼でも心の中は職人たちと同じであった。「何が違うんだ?」その答えを探る時間が必要だった。

 その頃、「宮城工業」で木型(ラスト)の製作を任されていたのは、石巻の工場立ち上げからの仲間であった木型職人、その名を『大浦伝助」といった。伝助はすぐに木型作りを始めた。まず靴の先の形をとる為に石膏を流し込んだ。次に木型の底面を探る為、靴の中底からを正確に情報を得なければならない。そしてまず1個目の木型を削りだし、早速サンプルを作る工程に廻す。出来上がった靴を評価するのだが、答えは皆異口同音に駄目だなであった。伝助はその後も休む間も惜しんで木型作りに没頭した。ようやく7個目の木型を削り上げた時に光明が差してきた。伝助はあることに気がついたのである。頭の形と底面をいくらトレースしたとはいえ、甲から踵にかけてのフォルムは真似出来ない。そこは伝助が先輩から伝授されてきた日本流のやり方で工夫するしかなかったのだ。でも何度やってもアメリカ製の独特な雰囲気が出ない。足を入れてみても何かしっくりこない。伝助はやり方を大きく変えたのだ。日本流のやり方を捨て、アメリカ人になったつもりでアメリカ製の靴に彼の全魂で語りかけたのだ。伝助が8個目の木型を削り、その靴が出来上がった時、明良をはじめ工員全員が笑顔になった。ついに完成したのだ。そのサンプルをすぐに米軍キャンプに持ち込んだ。もちろん答えは「オーケー」であった。この経緯を私は子供のころ、祖父明良から何度か聞いたことがあった。10年ほど前、工場奥の倉庫を片付けていると、古い布袋の中から米軍用型(伝NO.8)と書かれた古い木型が出てきた。

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3

作りは荒く、出し縫いなどもはずれたたりする。

革底前足部にゴム貼り、US ARMYの文字。

---------の中に書かれた文章はすべてフィックションです。

つまり創作です。決して信じないでください---------


 次回、機会があればかつて在籍していた、

当社伝説のデザイナー江戸川緑子さんの話か

伝説のパターンナー黒毛譲治さんまたは、当社の産業医だったマーチン先生

お話をしたいと思います。

To be continued.

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