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2018年2月

パリでの展示会

 1月22~23日、フランス・パリのホテルレッジーナを会場としてJSEPの展示会に出展しました。WFG(ワールドフットウェア)さんを主管として靴メーカー4社により組織されているのが、JSEP(ジャッパン・シューズ・エクスポート・プラットフォーム)です。今回がはじめての試みとあって各社の自信作を持ち込んでの展示会となりました。来場者にとってはなかなかお目にかかれない日本製の靴が想定外の出来だったようです。
 4月7日にロンドンで開催される靴愛好家の祭典・スーパートランクショウにもJSEPの4社が出展します。
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JSEPのパンフ


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宮城興業の隠された歴史 番外編3

このシリーズの最後に何故社名が「宮城興業株式会社」なのかのお話をします。以前から初対面の方に名刺を差し出し、「宮城興業株式会社の○○です。」と名乗ると「ああ、宮城県からですか~」から始まり、「芸能関係か何かですか?」「建設関係?」はたまた振り向いては、ほおに人差し指を走らせる(ヤ○ザじゃないわい)人までいるわけで、私は長い間、社名には強いコンプレックスを感じていました。山形で靴を製造すると決めてからつけた社名なのに何故「宮城興業」だったのか?

 結論から言うと、これを命名した創業者であり祖父の高橋明良以外に誰も知らない永遠の謎となってしまったということです。私が修行を終えて会社に入社したころには、祖父はすでに他界しており聞けずじまいでした。父や古くから働くものに聞いても誰も知りません。旧「宮城工業」→「宮城興業」=自然な流れ。としか捉えてはいなかったようです。はたしてそうでしょうか?隠された歴史に書いた通り、靴一本に絞ると決めて付けた社名です。普通ならばせいぜい「宮城製靴」または「宮城シューズ」であり、もう仙台には戻らない覚悟もあったでしょうから、そこは「山形製靴」か「山形シューズ」であるべきです。では何故「宮城興業株式会社」だったのか?私なりに独自の推理をしてみたいと思ったのです。

 推理1---祖父は、靴一本に絞るといいながら、実は将来の「山っ気」が抜けず、チャンスがあれば又なにか他の事業を起こそうと企んでいた。→→→だから興業→→→興業とは業を興すですからね!

 推理2---宮城というのは県名からではなくなにか別の意図からきているのでは?

---現代の人は天皇陛下がお住まいのところを普通に皇居と御呼びしています。ですが、古くは宮城(きゅうじょう)と呼んでいた時代があります。昭和の初期生まれまでの人はそういっていたはずです。そしてなんと疎開先の地名は山形県宮内町(現・山形県南陽市宮内)。つまり宮内庁に通じます。さらにさらに明良が靴一本に絞ったころに靴につけていたブランドこそクラウン、つまり王冠です。明良は宮城という言葉にロイヤルの香りを感じ、一つのステータスと考えていたのではということです。にしても真実はすでに闇の中。知ることは出来ません。

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赤湯の第二工場。ミシンが整然と並んでいます。

 1970年代に、CI(コーポレートアイデンティティ)なるものが大流行しました。この時期に多くの企業が名前を変更しました。横文字が多かったと思います。私が3年間修行させていただいた旧・日本製靴株式会社も株式会社リーガルコーポレーションに改めました。かねてから古臭い社名だと思っていたところですから、当社もこれにあやかろうと社員から公募したりし、最終的に残ったアイディアが「多く歩く」と「丈夫」の意からTUFFという名でした。株式会社タフコーポレーションにしようと計画しました。しかしいざ動き出してみると結構費用がかかることが判明し、それではいっぺんにやらずに出来るところからというので、済し崩し作戦に打ってでたのです。登記を変えたり広報したりせずに、まずは既成事実を積み上げる作戦です。

 最初にやったのは各人の名刺に宮城興業とタフコーポレーションのダブルネームにしたことでした。当時は送迎用のバスも所有していましたから、バスの横のネームもタフに切り替えたりしました。当時、私の苗字は高橋ですが、町うちでは宮城さんと呼ばれることが多かったのですが、次第に作戦が功を奏し、タフさんと呼び止められるようにもなってきました。今なら電話の応対で「タフコーポレーションです。」と言っても間違い電話だと思われないほどに浸透したなと思っていた頃、突然反対運動が起こったのです。20代の若者たちからの「宮城興業」の社名のほうが重々しくて良いという意見です。

 私ははじめ耳を疑いました。あれほどコンプレックスを感じていた社名です。世代が違うと、こうも感性が違うものかと。その後、しばらくの時間があり、当社がオーダーのサービスを展開し、当社最高級の商品にMIYAGIKOGYOの名を冠したものを上梓するに及び、私もつくづく「宮城興業」という社名の由来とそこに隠されたなんらかの感性を考え始めたのです。

いまやグローバルの時代になり、その名を残したのが本当に良かったと思える日が来るのを・・・。

 

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宮城興業の隠された歴史 第十七話

 戦後のどさくさからようやく落ち着きを取り戻し、物資が豊富に出回りはじめた昭和25年頃には、皮製品も統制解除となった。明良はかつて様々な経営に関わっていたが、そのほとんどを失ってしまった。これを機会に心機一転、靴一本に絞ってそれに没頭するようになる。昭和27年11月。旧宮城工業の社名を「宮城興業」とし新たに株式会社を設立したのだった。

 ----------何故社名を変えるにあたって、「工」の字を「興」にしただけだったのか?この件については、別の機会にお話ししたいと思います。---------

 随分と長いこと当社の創業者である私の祖父・高橋明良(アキラ)の話を続けてまいりました。もういい加減飽きたという声が聞こえてまいります。このあたりでこの話は終えたいと思います。これを書いた一番の目的は、この創業に至るストーリーを次世代を担う当社の若手社員にも知っておいてほしいと思ったからでした。波乱に満ちた明良の創業までの経緯(いきさつ)です。これまでのお話は私の生まれる前の話です。地元の新聞に「社長一代」と題され連載されていたものから抜粋しております。

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 この後、つまり私が実際に知っている明良は、私にとっては好々爺的な人でありましたが、やはり明治生まれの堅物と思われていた方が多いはずです。トレンドとはかけ離れた山形の地で、靴の製造だけで経営を続けるのは大変だったと思います。途中でオリジナルの製造をやめて大手メーカーの下請けに転じたのも納得できます。最盛期には250名の従業員をかかえ、紳士靴では全国6位の生産量を上げていました。オイルショックなどの経済状況激変のなか、倒産寸前の苦境にもなんどか直面しているようです。事業のかたわら、よそ者(宮城県から来た)だったことを意識してか、町のことや地区住民のための様々な活動にも精をだしていました。町議会議員を務めた後、今から51年前、南陽市が誕生する際に行われた、第一回市会議員選挙に立候補。間違いなくトップ当選と噂されたのにもかかわらず、結果は次点での落選。私は、失意を感じながらも泰然と立っているその姿を間近でみておりました。健康には人一倍気を使い、西式健康法を取り入れ、木の枕にベニヤ板の布団、温冷浴、金魚運動・毛官運動、さらには朝に牛乳2合・胚芽飲料2合・クロレラに人参のすりおろしに蜂蜜といった食事。健康の為なら死んでも良いと現代の健康オタク以上の配慮を行っていた明良でありましたが、昭和57年1月20日、かねてより体調を崩して入院していたところ大動脈破裂により78年の生涯を閉じたのでありました。

とっぴんぱらりのぷう。

 

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宮城興業の隠された歴史 第十六話

 前回、商工大臣より多額の融資が受けられたところまでお話ししたが、その時の話でこんな逸話が残っている。

-------第一回目の資金として,当時の八百万円が地元の銀行に送金されてきた。現在の30億円ほどの価値である。支店長が飛んできて「どうやら商工省で桁を間違えたらしい」といってきたそうだ。それだけの大金だたのである。-------

 多額の融資を受けたまでは順調だったが、肝心の工場のほうが一向に進まない。以前からあった工場を改造し、小さな重油ガマを使ってタイルを製造してみた。だがその結果は散々だった。どの製品にもひびがはいり、輸出どころか、使用に耐えられない物しか出来なかった。そこに商工省仙台支局から係官が調査にやってくる。明良は困った。タイル1枚出来上がっていないのに輸出実績などあるはずがない。「いま一千万円のプレスと七百万円のカマを発注している。到着次第に大量生産に入る計画だ」と説明してその場は逃れた。

 やはり、素人の悲しさであった。明良には製材業もタイル製造経営はの出来なかった。ただ残ったのは多大な赤字だけであった。運の悪いときはどこまでも悪がつきまとう。次には国税局の査察が入った。一千万円の脱税の疑いがあるというのだった。このころ明良は、まだ仙台にゴム会社、ホテル、出版社の3社の経営に首を突っ込んでいた。その全てが調べられた。しかし脱税はしておらず証拠も一切見つからなかった。だがこの件の影響で銀行からの信用を失い、仙台の3社の経営権をすべて譲らなければならなくなった。タイルのほうも依然うまく行かず、冶金課を卒業した次男に衛生陶器を作らせようと日本建材工業の看板を日陶興業に改めた。つまりタイルをあきらめ便器の製造をはじめたのである。白色の便器を製造しているのは東北ではめずらしかった。月産3,000個の生産量をあげたが、思っていたほどの需要がなくやむなく閉鎖となった。結局、丸裸になった明良。多額の借金と靴工場だけが残ったのだった。

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宮城興業の隠された歴史 第十五話

 明良は工場前の土地8,250平方㍍を革靴150足で買った。ここに日本建材工業の製材工場を建てたのである。原木を山からきりだして、この工場で製材した。経営は思ったほどかんばしくなかった。

 ところが山から切り出してくる原木に白石がついてくるのが明良の目にとまった。珪石(ケイセキ)である。地質学者に問い合わせたところ、この付近一帯には石英粗面岩(流紋岩)」や長石もあるという。昔この地では焼き物を作り米沢の殿様に献上していたこともあるという。知人にタイルを製造している人がおりこの珪石を使えば原色のりっぱなタイルが作れるという。石のイの字も知らなかった明良であったが、こんどはタイルの製造をはじめることになった。

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山林を下見にいった際の写真

前列左から2番目が明


 技術者を呼んで試作をしたり、山形工業試験場に分析を頼んだり、サンプルを作ってみた。実にすばらしいできばえであった。さっそく東京の高島屋に行き、インドのバイヤーにみせたところ「これはすばらしい。出来たら契約をしてもいい」と折り紙をつけてくれた。明良はこれはいけると心を強くした。

 しかしタイルを製造するには当時一千五百万円もの資金が必要であった。商工省(現・経済産業省)が貿易として必要と認めたときは国が融資するという情報を得た明良は、設計書や必要書類を持って直接商工省に乗り込んでいった。約束も取り付けないで商工省に乗り込み、いきなり大臣に会わせろといっても無理な話である。まして戦後まもない時代で多忙を極める大臣が、片田舎の名の知れない人に会うはずがない。明良は根性とねばりと毎日きまった時間に日参した。

 二週間もすぎたころようやく面会がゆるされた。明良は机の上に図面と石と土と製品をひろげた。大臣は物も言わずに「貿易資金として一千五百万円を融資する」という書類に印を押したのである。明良は声をあげて泣きたいほど喜んだ。今の価値にすると50億円ほどの大金だった。

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宮城興業の隠された歴史 第十四話

 本編に戻って明良の話を続けます。

 敗戦から1年ほどしたある日、明良は疎開先で間借りしていた製糸工場の経営者から「いつまで居座るつもりだ」と立ち退きを迫られた。賃借料も払っていなかったのであるから無理もないことだった。ちょうどそのころ近くの板金工場が売りにだされていた。約1、650平方㍍の工場である。さっそく五ケ月払いの百万円で売買契約を結び、工場の整備にとりかかった。この工場が現在の場所である。

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移転先の当時の写真

現工場の面影そのまま

 結局、米軍からの軍靴の注文はごく僅かであった。しかたなく今度はズッククツの製造を始めることにした。いわゆる布製の靴である。ズッククツは山形県の雑貨組合の支部を通じて売りさばいていた。工場の買収金はこの利益で支払っていった。

 山形の冬は長く、三月になってもまだうず高く雪が積もっている。この雪の多さに辟易してわずかに残っていた従業員たちも、会社をやめて郷里の仙台に帰りたいと言い出した。引越しのときから協力を惜しまなかった人たちだった。しかし退職金をやるのにも金がない。そこで陸軍支局から服や地下足袋、長グツ、帽子、毛糸などを調達してもらいそれを退職金代わりとして支給することとした。とくに毛糸は一人に9㌔もあった。

 一難去って、また一難。明良の会社に残ったものは、十人足らずの身内のものだけであった。明良はまた再起をはかるため、あらためて従業員を地元から採用しなおした。当分の間は生産量を抑え、従業員の給料を払えるだけ十分と、一から靴作りの教育をはじめた。日本は、数年もすれば落ち着きを取り戻し、革靴の需要が今の10倍か20倍になる日が来ると考え、それまでに調達していた資材をもたせようと考えたのであった。

 その間余裕が出てきた明良は、元町長や製材業を営む人との知己をえて新たな事業に乗り出すことになった。終戦からちょうど1年が過ぎた昭和21年8月、資本金50万円で「日本建材工業株式会社」を組織したのだった。

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 番外編2

当社の歴史を書き始めたきっかけが、10年前に上梓した宮城デン開発の説明の為だったことなど、もう誰も覚えてはいないことは確かだ。もしこのブログ読んでくれている人がいるとしてもそろそろ飽き飽きして早く正常化してほしいと願っていることも私は重々「合点承知の助」なのである。だがしかし、私には話を完結させる責務があるのです。そうでなければ、十年前に書き始めて途中で筆が進まず十年を無為に過ごした後悔の為、死ぬに死に切れないのであります。なので今回はいよいよ当社が誇る銘靴「宮城デンシリーズ」が生まれた経緯をどうしても述べなければいけないのです。

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1940年代に作られたアーミーブーツ

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 アメリカ兵の為の軍靴製造を始めるにあたり、まず米軍キャンプから1足のサンプル靴を預かることになった。明良をはじめ残って仕事をしていた工員(職人)たちは、その靴の出来を見て一同に息を呑んだ。その靴はなにか例えようのないオーラを放っていた。もちろん仙台に帰ることもせず靴作りを続けると誓った職人たちである。腕には自信があった。縫製や底付けの為のステッチなどはアメリカ製のものは荒く甘い。負けている気はしなかった。材料にしても特段上物を使用しているとも思えない。だが何故か?すぐに作れる気にはなれなかった。靴工場の経営については自信があった明良ではあるが、作りのほうはすべて職人たちに任せてある。でもそんな彼でも心の中は職人たちと同じであった。「何が違うんだ?」その答えを探る時間が必要だった。

 その頃、「宮城工業」で木型(ラスト)の製作を任されていたのは、石巻の工場立ち上げからの仲間であった木型職人、その名を『大浦伝助」といった。伝助はすぐに木型作りを始めた。まず靴の先の形をとる為に石膏を流し込んだ。次に木型の底面を探る為、靴の中底からを正確に情報を得なければならない。そしてまず1個目の木型を削りだし、早速サンプルを作る工程に廻す。出来上がった靴を評価するのだが、答えは皆異口同音に駄目だなであった。伝助はその後も休む間も惜しんで木型作りに没頭した。ようやく7個目の木型を削り上げた時に光明が差してきた。伝助はあることに気がついたのである。頭の形と底面をいくらトレースしたとはいえ、甲から踵にかけてのフォルムは真似出来ない。そこは伝助が先輩から伝授されてきた日本流のやり方で工夫するしかなかったのだ。でも何度やってもアメリカ製の独特な雰囲気が出ない。足を入れてみても何かしっくりこない。伝助はやり方を大きく変えたのだ。日本流のやり方を捨て、アメリカ人になったつもりでアメリカ製の靴に彼の全魂で語りかけたのだ。伝助が8個目の木型を削り、その靴が出来上がった時、明良をはじめ工員全員が笑顔になった。ついに完成したのだ。そのサンプルをすぐに米軍キャンプに持ち込んだ。もちろん答えは「オーケー」であった。この経緯を私は子供のころ、祖父明良から何度か聞いたことがあった。10年ほど前、工場奥の倉庫を片付けていると、古い布袋の中から米軍用型(伝NO.8)と書かれた古い木型が出てきた。

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作りは荒く、出し縫いなどもはずれたたりする。

革底前足部にゴム貼り、US ARMYの文字。

---------の中に書かれた文章はすべてフィックションです。

つまり創作です。決して信じないでください---------


 次回、機会があればかつて在籍していた、

当社伝説のデザイナー江戸川緑子さんの話か

伝説のパターンナー黒毛譲治さんまたは、当社の産業医だったマーチン先生

お話をしたいと思います。

To be continued.

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宮城興業の隠された歴史 番外編1

 日本陸軍と海軍の両方の軍靴をつくっていた前身の「宮城工業」です。残念ながらその当時にどんな軍靴をつくっていたか?現物も残っておらず計り知ることも出来ません。

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現在旧日本軍が履いていたという

軍靴のレプリカを他社が製造して

いるようなので何点かを写真で紹介

します。


 当時の日本人は、軍隊に入るか、よほどの金持ちでもなければ革靴を履いたことがなかったのだと思います。おそらく入隊した新兵が足のサイズを聞かれても困惑したはずです。せいぜい足袋のサイズである、十文とか十文半とかがサイズの基準だったと思われます。軍靴については、真偽は不明ながら様々なエピソードが存在します。例えばどこどこのメーカーは海軍の靴専門だったから今作っている靴も脱げ易い!とか。もし海に投げ出されて泳ぐ羽目になったらすぐ靴を脱がなければなりませんからね!

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 また、実際戦争で南方戦線(フィリピン)に従軍した大叔父が言うには、支給された靴が足になじまず、常に裸足で行軍し靴は担いで歩いたんだ。あんな靴では戦えるはずがない、日本が戦争に負けたのは靴のせいだと。残念な話ですが、なぜか説得力はあります。おそらくアメリカのほうは、細かいサイズの他に巾(ウイズ)も選べたでしょうからね。敗戦後にアメリカと戦争するなんて無謀だったと皆が口にしていたと思いますが、せめて靴だけでももう少し良ければ善戦出来たかもしれませんね。

 

 

 

 

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