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宮城興業の隠された歴史 第十七話

 戦後のどさくさからようやく落ち着きを取り戻し、物資が豊富に出回りはじめた昭和25年頃には、皮製品も統制解除となった。明良はかつて様々な経営に関わっていたが、そのほとんどを失ってしまった。これを機会に心機一転、靴一本に絞ってそれに没頭するようになる。昭和27年11月。旧宮城工業の社名を「宮城興業」とし新たに株式会社を設立したのだった。

 ----------何故社名を変えるにあたって、「工」の字を「興」にしただけだったのか?この件については、別の機会にお話ししたいと思います。---------

 随分と長いこと当社の創業者である私の祖父・高橋明良(アキラ)の話を続けてまいりました。もういい加減飽きたという声が聞こえてまいります。このあたりでこの話は終えたいと思います。これを書いた一番の目的は、この創業に至るストーリーを次世代を担う当社の若手社員にも知っておいてほしいと思ったからでした。波乱に満ちた明良の創業までの経緯(いきさつ)です。これまでのお話は私の生まれる前の話です。地元の新聞に「社長一代」と題され連載されていたものから抜粋しております。

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 この後、つまり私が実際に知っている明良は、私にとっては好々爺的な人でありましたが、やはり明治生まれの堅物と思われていた方が多いはずです。トレンドとはかけ離れた山形の地で、靴の製造だけで経営を続けるのは大変だったと思います。途中でオリジナルの製造をやめて大手メーカーの下請けに転じたのも納得できます。最盛期には250名の従業員をかかえ、紳士靴では全国6位の生産量を上げていました。オイルショックなどの経済状況激変のなか、倒産寸前の苦境にもなんどか直面しているようです。事業のかたわら、よそ者(宮城県から来た)だったことを意識してか、町のことや地区住民のための様々な活動にも精をだしていました。町議会議員を務めた後、今から51年前、南陽市が誕生する際に行われた、第一回市会議員選挙に立候補。間違いなくトップ当選と噂されたのにもかかわらず、結果は次点での落選。私は、失意を感じながらも泰然と立っているその姿を間近でみておりました。健康には人一倍気を使い、西式健康法を取り入れ、木の枕にベニヤ板の布団、温冷浴、金魚運動・毛官運動、さらには朝に牛乳2合・胚芽飲料2合・クロレラに人参のすりおろしに蜂蜜といった食事。健康の為なら死んでも良いと現代の健康オタク以上の配慮を行っていた明良でありましたが、昭和57年1月20日、かねてより体調を崩して入院していたところ大動脈破裂により78年の生涯を閉じたのでありました。

とっぴんぱらりのぷう。

 

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