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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編5

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ヨーロッパには、ギルドと呼ばれた商工業者の職業別組合がありました。古く英国ではその点で、靴を作る人の呼びかたとしてコードウェイナー(Cordwainer)とコブラ―(Cobbler)の2種類の分け方をしていたようです。どう違うのかというと前者は新しい革から新しい靴を作る権利を有している人たちであり、後者は靴の修理を主な仕事にしており、もし作る際も使い古した革、つまり何かをばらした革などなら靴を製造しても良いという制限をつけていたらしいのです。(確かではありませんが、職人たちの権益の匂いがします)

 


 

ドイツのギルドの紋章で左上が靴屋

 

 

 

 

 

 

 

今は別の学校に吸収される形で閉校されてしまいましたが、ロンドンにはコードウェイナーズ・テクニカル・カレッジという名の、靴の学校がありました。パトリックコックス(今は靴の仕事は止めてしまったのか?この人の靴好きでした)や今も現役で活躍しているジミー・チューなどの靴のデザイナーたちを輩出しています。

 

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KAZが英国に渡った当時、ヨーロッパに靴の勉強に行く人がいるとすれば、靴メーカーの社長の子息がいる程度でした。KAZと同じように、英国のどこかで靴を学ぼうとした人は、靴の勉強は途中で止めて、どうやらパンのおいしさに惹かれパン屋になった人がいるとのことです。つまりその当時は、ごく稀だったのです。

 

ところがその後、状況は一変しました。その先陣を切ったのがギルド・オフ・クラフツを主宰するかの有名な山口千尋氏です。彼はなんとKAZの帰国した翌年の1986年に英国に渡り、1987年からコードウェイナーズで学んだあと1991年までの5年間、英国に滞在して靴工場で働きながら学び、最終的には日本人初のギルド オブ マスタークラフツメンツという称号まで取得した方です。靴メーカーの息子とかではなく、自ら靴作りという職業に、それも若い時から目標を定め、着々と歩みを進めて来た方です。(KAZとは格段の違いです)帰国後、まだ時代が追い付いていなかったこともあり、すぐにビスポークの道に進むことはできなかったようですが、やがてその時代が到来するや否や、やはり先陣を切ってそのビジネスの展開を始めました。

 

彼の後に続けとばかり、同じコードウェイナーズ出身の柳町氏、大川由紀子さん、卒業後にKAZがいたバーカー社勤務の後、ジョンロブで長年パターンナーを務めている黒木氏などです。更には、やはり英国の靴学校であるトレシャムインスティテュート出身の福田氏、イタリア・フィレンツェのロベルト・ウゴリーニ氏の元で学んだ、神戸の鈴木氏、福岡の清角氏、フィレンツェの深谷氏など、数えきれないほどの若者が現在ビスポーカーや靴の作りてとして活躍しています。このようにヨーロッパで靴作りを学び凱旋帰国した人や国内で地道に腕を磨き上げた人も含め、現在の日本には100店舗ほどの靴のオーダーメイドの店が出来ました。

 

KAZは近い将来必ず『世界で素晴らしい靴を作るのは日本人だ!』と言われる日が来ると言います。いやもうすでに来ているのかもしれません。その理由は、日本人の職に対する考え方だと言います。

 

手に職を付ける。つまり技術を身に着けるということ。

 

決してお金を中心に考えるのではなく、情熱をかけて作った日常使う道具に美的な感性と機能性を持たせること。その作り上げたものを通じて使用してくれる人に幸せを感じてもらいたい。自分の一生をかけてそれらの価値を見つけようとするストイックなまでの追及心。

 

そういった特殊なDNAを持つ人種が日本人なのかも知れません。

 

 

 

To be continued

 

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