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2019年1月

KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編19

社長になって最初に取り組んだのがリストラという不名誉な船出。5ヶ月後には1億円を超える不渡りを掴まされるという最悪のスタート切ったKAZであった。

ある日、普段なら月末近くにやってくるはずのお抱えの税理士事務所の事務員さんが、神妙な面持ちで訪ねてきた。KAZの前に座ると

「何も言わず受け取ってください!」と、表紙をひっくり返し、白い表紙になった本を1冊差し出した。

『何事か?』と思いそっとページをめくってみるとそこには、

『会社再生法Q&A』と書かれてあった。会社の経理を知り尽くしている事務員さんにしても、この危機は乗り越えられないと考えていたのだ。

KAZは笑って答えた。

「ありがとう!心配してくれて!」」

「それに、まだ全然諦めていないし、やれるだけやってみるつもりだよ!」

「やるだけやって、それでもし駄目だったら・・・、その時はその時!」

「ありがとう!気持ちは有難く受け取っておくよ!」といって机の引き出しの奥に大事に仕舞った。

 

不思議なことに、その年度の決算は黒字に出来た。使える手はすべて使う。この間のKAZの頭の優先順位は、とにかく会社を生き残らせること。でも粉飾と言う手口を使ったわけではない。倒産した会社の法的な精算が次の年度に持ち越されたので、不渡りの計上も次年度に持ち越せたのである。良くも悪くもリストラを断行していたことで、経費を抑えることも出来た。破綻した取引先から大型トラック2台で引き上げてきた商品を前社長が立ち上げた会社に全数売り上げさせてもらった。だから不渡りという事態を除けば初年度は、黒字という結果になったのである。

リストラだけではなかった。会社の危機ということで、給与の引き下げを行い、ボーナスもゼロ。社員にとっては会社がいつ潰れるか分からないという状況ゆえ、全面的に協力してくれたのであった。金融機関は約束通り、支援を続けてくれていた。しかし、無制限という事は無い。なので資金繰り的には、正直自転車操業。月ごとではなく日々、5日・10日・15日・20日・25日・月末とそれぞれの支払日にはたして資金が足りるのかを心配しなければならなかった。この苦労があったので、KAZは大学でも学ぼうとしなかった会計の仕組みを、実践を通じて否が応でも学ばなければならなかった。

Photo バーカー社では、婦人靴も手掛けている。

この時のKAZは、営業面でも使える手、やれることはすべてやった。本来は紳士が主体のメーカーである。女性用のエレガントな靴など作った経験もない。英国でも学ぶ機会はあったのだが、必要とは考えなかったので学んでいなかった。仕事をもらいに商社に出向き、本来の仕事の依頼を一通りこなすと、目ざとくその女性用の企画書を見つけ、担当者にその企画もやらせてくださいと談判を始める。

「これは、貴方のところでは無理でしょう?」と言われても

「なに寝ぼけたこと言ってるんですか?得意ですよ、これ!」といって強引にサンプル依頼を取り付ける。

そして、その会社から出るとすぐに次の行動に出る。知己のある婦人靴のメーカーに電話して、「東京に出て来ているついでに!」と言って、工場見学を申し出るのだ。KAZの会社が紳士靴専門だと安心しきっている会社なので、丁寧に隅の隅まで見せてくれた。こうやって作れもしない婦人靴のノウハウをしっかり盗んで帰ることまでやれるようになっていた。

 

人としてどうなのか?ということはこの際、特別に忘れてください。

危機や逆境や苦難ということが、ある面『人をたくましくしてくれる』という事には、少しだけ同意してもらえるのではないでしょうか?

  

To be continued


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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編18

ガラスに入った少しばかりの傷が、時間の経過とともに大きくひび割れていく、
Photo_2  坂道を転がり出した石ころが止まることを知らず勢いを増して転がり落ちるように、一旦悪い方に回り出した歯車を止めることは難しい。

 呼び出されてすぐに駆け付けたKAZに持ち掛けられた相談の中身である手形のジャンプの額は、KAZが予想していたものをはるかに超えていた。全額に近い額だったのである。つまり今月末の支払いは出来ないというのに等しかった。

 相談場所に使われた喫茶店のテーブルを挟んだ二人の間にしばらくの沈黙が訪れた。そして考えに考えた上でKAZは答えた。

「無理ですね!」

「このまま続けていくと当社も間違いなく倒産してしまいます。」

「残念ですが、諦めてください!」

 

その答えを聞いて

「そうですか!分かりました!」と答えた相手先の顔が、一瞬で柔和な顔になった。

その時、KAZは思った。

『これまでの数か月は相当に苦労し苦しい思いをしてきたんだと』

KAZはこの時に、結果が最悪でも、その苦しさから逃れられると知った人間はこんなに柔らかい表情を浮かべるんだということを初めて知った。

 

 その後、二人は破綻に向けての作業を確認した。相手先は、今までの取引の中で当社が果たしてきたことの重要性を十分に分かってくれていた。そして、ここ一年近くに渡った当社の協力に対しても同じだった。なので自分の会社が今月末に破綻に追い込まれても当社に対しては出来るだけ便宜を図ってくれることになった。

 20017月末、変な書き方になるが、予定通り相手取引先は、手形の不渡りを出し倒産した。KAZは、これも予定した通り、大型トラック2便を手配し、すぐに倉庫に乗り込んだ。倉庫のシャッターには張り紙が張られてあった。本来なら立ち入ることなど出来ない。しかし、当社は事前に決済されていない商品は当社の保有とする旨の契約書を締結していた。そのおかげで、管財人の許可も簡単に取ることが出来た。何も手を打っていなかったならば、1億数千万の損害になっていたであろう。しかし、事前に対応していたことが最悪の状況の中、最悪にならないで済む結果を生んでくれたのであった。

 前社長が経理畑の人だったということもあり、関係する金融機関に当社はすべてガラス張りで良い情報も悪い情報も包み隠さずという伝統があった。だから、今回の事態は金融機関にも想定内の出来事となった。

しかし、問題は材料等の仕入れ先であった。当社が、相当額の不渡りをつかまされ、連鎖倒産するのではと言う、噂が一気に業界をかけめぐった。不渡りはデマではない、真実なのだ。『果たしてやっていけるのか?どうなのか?』が問題だった。

 当社に、納入している業者が『状況を教えろ』と次々に訊ねてきた。大口の仕入れ先には先んじてこちらから出向いく必要もあった。KAZは説明に追われることになった正直に答えることは、取引停止に繋がることを意味する。応対する態度も重要だった。もし自信のない態度をちょっとでも見せたら、そこからも綻びが見えてしまう。不渡りの額(減額した嘘の額)、現在の状況、金融機関の支援内容、今後のビジョン等を数字を盛り込みながら丁寧に説明した。数十社ある仕入れ先の多くが、これまで通りの納入を約束してくれたが、一部からは、1時間ほどの説明を聞いた後に、「貴方の話は俄かに信じられない!」と言われることもあった。

 KAZのこの時の経験は、人の見方や付き合い方というものを考えされられるものとなった。つまり、信頼して長く付き合える人とはどんな人間か?ということである。もし『信じられない』と口に出すのなら、納入を止めればいいだけのことである。そんな大人げ無い人間がいることも勉強になった。

 その中に、こんな人もあった。信用調査会社の人間である。同じように説明を聞き、必要な書類をすべて請求してきた。余計なことは一切言わず、必要とあれば漏らさず質問してくる。帰り際に礼を言った後、「それでは、社長頑張ってください!」と付け加え、静かに帰って行った。その男、会社の門に立ち、レポート用紙の片隅に「間違えなく、近々倒産」とメモに残した(後日、本人に聞いたので本当の話)。

 プロの目から見ると簡単に分かったのである。そうKAZの会社は、相当の額の債務超過に陥っており、余程のことが起きない限り、確実に倒産する道を進んでいたのである。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編17

 本来、経営者ならば絶対さけなければならないリストラ。横文字にすると表現が幾分柔らかくなるが、要は首切り・人員整理である。

Photo

ディズニー映画に『キンキ―ブーツ』という、潰れかかった靴メーカーが『オカマちゃん』専用のブーツを作り、会社の危機を脱出するという物語の映画がある。映画の冒頭で、社長である父の急死で後継ぎとなってしまった主人公が、経営不振を理由にやはり人員整理を断行しようとした。しかし、一人の女性従業員に「新しいビジネスのアイディアも出さずに人の首切りを優先するなんて!」と厳しく追及され、翻意して新しいビジネス・モデルに挑戦していくという物語だ。この映画は実話に基づいて作られている。撮影場所はノーサンプトンのトリッカーズの工場が使われたのだが、実在の工場は、KAZが1年間修業した場所、つまりバーカー社が、新社屋に引っ越した後、空いた旧工場に移転してきた会社、まさにその会社が、この『オカマちゃん』専用のブーツを作っていた会社である。

KAZは後年、この映画を見た時に、冒頭の主人公の考え方と自分の当時の考え方を重ね合わせ、心が痛んだ。KAZが、本当にやらなければならなかったのは、『映画の女性従業員が言うように、リストラを考えるより先に新たなビジネスモデルを考えることだったのではないか!』と。

 

しかし、残念ながらKAZはそう出来なかった。年が明けた20012月末、株主総会が開かれ事前に打ち合わされたいた通り、KAZが4代目の代表取締役に就任することとなった。そして31日に全社員にその結果を知らせた後、幹部社員を社長室に集め、リストラを断行すると宣言したのだ。

誰も自慢できる話ではない。社長就任の最初の仕事が首切り・人員整理だなんて。だがしかし、それが事実なのだ。最悪の船出である。この時、またKAZが小さかった頃にKAZの頭をなでて「豆社長、将来頼むぞ」といってKAZを可愛がってくれていた何人かの社員も会社を去って行った。

 

冷徹な男がいる。理想と現実のバランスの中で、かなり現実よりに振れ、なによりも現実を重んじる男がいる。適当に愛想を振りまいて、周囲を和ませている風を装ってはいるものの、その心の中は冷たい風が吹いている。人というものは、最後の最後は、自分が一番大切だと思っているのかもしれない。思考の中心は自分なのだ。男の心の中もそれと変わらない。しかし、組織でリーダーを務めるべき男がそういう男であった時、ついて行った人たちに幸せは訪れるのだろうか?

男は言う。嵐の中に漂う船がいる。今にも沈みそうな船だ。船には穴が空いている。浸水が激しくなっている。舵も利かなくなってきた。このままでは間違いなく沈没してしまう。荷物が多すぎるのだ。沈没を避けるためには、荷を軽くするしかない。そうすればまだ助かる見込みがある。だが目的地に辿り着ける保証はない。ただ沈没だけ避けられれば、まだ漂流を続けることが出来る。それから徐々に船を直していけばいい。男はいう。

『早く荷を軽くしろ!』と。

 

社長となったKAZは、早急にリストラを断行した。20015月末までに100人いた社員を70名まで減らした。これでなんとか航海を続けられるとの判断だったが、7月初めに破綻懸念の取引先に呼び出された。手形のジャンプ額の増額を要請したいという話であった。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編16

2000年の暮れが近づいてきた頃、手形のジャンプ要請をしている相手先の経営状況は一向に回復する様子が見られなかった。KAZの会社の売上の3割を占める相手先である。シミュレーションをしている悪い方、つまりXデイが、もし来てしまえば、連鎖倒産を余儀なくされてしまう。経理畑の社長は、その万が一の為に備えやれるだけの手当てを講じていた。その一つは、相手先との取引契約書を改め、支払いが完了すれまでの商品は、たとえ相手先の倉庫に納入した後でも当社のものとするなど、保全を図る処置などである。KAZは営業面を任されていた。このような時にやるべきは新規の取引先を開拓し、もしもの時にでも、その次を見据えられる経営環境を整えなければならないからだ。

しかし、残念であり、情けないことにKAZはそれが出来ないでいた。バブル経済の崩壊から10年が経過したとは言え、依然としてデフレが続き、景気回復とは程遠い状況にあった。世に云う失われた10年の最中だった。売りたいと思っているところに商談に行けば、まったく価格が合わず、買ってくれそうな相手を見つけると経営状況が相当に悪く売るべき相手ではないことが分かった。

 

いよいよ暮れに差し掛かるころ、手形ジャンプの金額が減るどころか増える事態になってきた。恐れていたXデイが迫っている兆候である。このまま債務が減らないまま相手先が倒産に追い込まれるような事になってしまえば、当社が保有する未決済の手形の額が億を超えてしまう。そうなったら本当にKAZの会社まで連鎖してしまう。居ても立っても居られなくなったKAZは、社長に決断を迫った。

「このまま債務を減らせないと当社まで巻き込まれます」とKAZ。

「では、どうすれば良いと思う?」と社長。

「まず、今までのように売り続けるのを抑えましょう!」

「でもそれでは絶対的な生産量が足りなくなるだろう?」

「はい、会社の規模を縮小するしか手はないと思います!」

「どういう意味だ?」

「はい、リストラせざるを得ないと思います!」

「・・・・・・・・・」

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しばらく社長は考え込んでいたが、静かに話し出した。

「君がそう思うならそうするしかないな!」

「でも、やるなら君がやれ!」

「だいいち社長就任中に2度もリストラをしなければならないならば、すでに社長失格だ!」

「年明けの株主総会の席で君が社長になり、やるならその後にやりなさい!」

 

考えてみれば、現社長はバブル崩壊の後の1993年にリストラをしている。企業は人だと考えている社長が、会社を存続させる為にはと断腸の思いで断行せざるを得なかったのだ。その社長にもう一度、リストラを進言し、その返答を聞いた時、KAZは愕然とした。

社長を補佐する立場にありながらその責務を果たすことも出来ていない。そして、社長に一番言ってはいけない進言をしてしまったということに改めて気付かされたのだった。

 

深い闇に包まれたまま20世紀最後の年、2000年が暮れようとしていた。

 

To be continued


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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編15

 おっとり刀で出掛けて行った社長。相手先の専務との面談で話合われた内容はやはり良い話ではなかった。

「今月末に支払い期限が来る手形、その一部をジャンプして欲しい」という内容だった。

約束手形というのは、サイトと呼ぶ数か月先の期日を指定して、その日に換金を約束する有価証券のことである。ではジャンプとはどういう意味か?つまりその期日に全額支払えないことを意味する。手形とは便利な面もあるがその期日に1円でも不足すれば不渡りとなってしまい、2度不渡りを出した時点で銀行から取引停止処分がでて実質倒産となってしまう。なので今月末の一部をジャンプという意味は、足りない部分を新たに手形を切るので、その不足分をKAZの会社で用立て、不渡りを回避するという手法なのだ。

 月末決済されるはずの金額は3,000万円。その内不足額は1,000万円。ジャンプ要請を受け不渡りを回避する為には、本来支払うべき相手にこちらから先に1,000万円を送金しなければならない。もし信用が置けない相手だとしたら、その金を持って逃げ、不渡りまで掴まされるかも知れないのだ。

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「大丈夫ですか?」KAZは聞いた。

「信じるしかないだろう!」と社長。

経理畑の社長である。当社に入ってからも幾度となく修羅場をくぐってきた経歴もある。実際に、KAZの父親が社長の時代、補佐する立場でこのような危機に何度も立ち会って来た経験の持ち主だ。

「ただ、1度ジャンプに応じると23度と続くことになる。持ち直して呉れれば良いが?」

 

 KAZは、会社で主に営業や企画を担当していた。資金繰りをはじめとする経理の仕事は、社長の範疇だった。大学では経営学部に在籍していたKAZである。4年の大学生活で商業簿記をはじめ経済や経営に関する知識を十分に身に着けることは出来たはずだ。しかし事実は違った。KAZは大学生活の4年間、ほとんどの授業をさぼり、アルバイトとバンド活動に明け暮れていたのだ。それで良く留年もせずに卒業出来たなと尋ねられるのだが、KAZには天性の要領の良さが備わっていた。授業は、友達に頼んで代返。期末の進級試験はまだ全共闘世代の名残が残っており2年連続で粉砕された。3年次4年次に関しては、論文形式が多かった為、適当に量だけは埋めてなんとか乗り切った。なので4年で身に着けたのは、アカデミックな経営に関する知識とは一切関係のない実践で身に着けた知恵というものだけだった。

 この頃のKAZは、40歳を超えて仕事をする上では一番脂が乗ってきたころである。いずれは叔父の社長も引退を表明することになる。その時に『資金繰りや経理のことは全くわかりません』では困るのである。会社が危機を迎えている中、KAZは、自分でもより詳しく実態を知っていなければならなかった。

 PCと向かい合い、必死で必要なデータを打ち込んでいった。ただでさえ勉強が苦手な上に、何時間も数字と睨めっこをしていると吐き気がしてきた。しかし、逃げ出すわけにはいかない。辛抱強くやっていくうちにだんだんと面白さを覚えるようにもなっていった。そしていかに会社の経営が厳しいのか?逼迫しているのか?が具体的につかめるまでになっていた。KAZは、このピンチの時に、本当の意味での必死になって経営学を学んでいたのかもしれない。

 手形のジャンプに応じた会社が持ち直すことにより自分の会社が被害を受けない為のシミュレーション。持ち直すことが出来ずに破綻してしまい、ついに迎えてしまうXデイのシミュレーション。その絶対にあってはならないXデイを回避すべく、何をすべきかを必死に考えていた。

21世紀を目前にしていた頃の話である。

 

To be continued


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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編14

 1990年代を象徴する出来事と言えば、情報化社会への急激な変貌であろう!いわゆるIT革命である。KAZの会社では、当時の社長を務めていた叔父が経理畑の人であり、小さい会社ながら早くからオフコンを導入し生産管理や給与計算などに使用していた。そこにパーソナルなコンピューターというものが新しく表れたのである。初期のPCは、価格が200万円以上もしたのだが、ワープロに毛が生えた程度の性能で、計算式を入れるのにも苦労するものだった。

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今は動かなくなったアップル社のPC

 

 スティーブ・ジョブズ率いるアップル社が先行し、そこにマイクロソフト社が手頃なウインドウズを発表すると爆発的に普及することとなり、日本でも本格的なPC時代の幕開けを迎えることとなった。

 KAZがPCに興味を持ち始めたきっかけは、デザインの方からであった。前述したギルドオブクラフツの山口千尋氏がその知識を生かして見事なプレゼンを行ったのに衝撃を受けた。また取引先のスポーツ用品メーカーのデザイナーから提示された設計図を始めて見た時に、アナログオンリーだった今までの靴作りとのあまりの違いに触れ、刺激をもらったのであった。どちらもデザイン関係ではまだ優勢だったころのアップル社のマックに搭載されていたイラストレーターやフォトショップというアプリケーションソフトを使って作られたものだった。

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早速ローンを組んでPC本体とアプリ、スキャナー、プリンターなどの必要な付属品を買い揃えた。当時、150万円程の価格だ。関連の本を買い独学で取り組んだ。マックの困ったところは複雑な作業をしているとすぐに固まってしまうところである。爆弾マークが突然画面に表れて何も出来なくなってしまうのだ。なので頻繁に保存をしておかないと数時間かけて作ったデータが一瞬で消えてしまうことになった。しかし、KAZはこの時の経験で、デザインなど手書きが当たり前だった革靴の世界にデジタルを導入する知恵とデジタルだけで進めるよりもデジタルとアナログを上手に使い分けることの重要性に気付かされたのだった。

 PCの出現により膨大な情報があふれる時代となった90年代も終わりを告げる頃、2000年問題でコンピューターが誤作動を起こすかもしれないと大騒ぎになったり、21世紀を向かるミレニアムだとお祝いムードに世間が浮かれ始めていたころ、KAZの会社は大変な問題を抱えていた。

 

 KAZが『別に買ってもらわなくても平気です作戦』です、などと営業面で突っ張っていられたのも、実は一方で安定した仕事が確保出来ていたからであった。その仕事とは何か?バブル経済崩壊以前に大量の仕事をいただいていた大手メーカーが得意とし、国内市場で人気を博していたトラディショナルな商品。その商品と製法は同じにし、若干リメイクを施し、価格を格安にした。それがディスカウント業界で大量に売れていたのである。実にKAZの会社の売り上げの3割を占めていた。

この商品を納めていた問屋が急に経営不振に陥った。3人兄弟がでそれぞれ業務を分担して経営をしていたのだが、長男が担当していた輸入品の売上が急激に落ち込み、大量の商品が不良在庫となって経営を圧迫し始めていたのだ。KAZは、主要取引先であることから頻繁に訪問をしていたが、ある日突然変化があらわれた。以前は倉庫に溢れんばかりに積まれていた商品がきれいになくなっていたのだ。社長である長男の姿も見られない。ただならぬ雰囲気を感じ取った。会社に戻るとKAZは、社長にそのことを報告した。恐らく急激に経営が悪化、その為、不良となった輸入品の在庫を換金する目的で処分したのではという報告であり、長男は責任を取る形で経営から離れているのではないか?ということを報告したのだった。

 問題は深刻だった。売り上げの3割を占めている取引先である。支払いも現金ではなく手形だ。もしこの取引先が破綻してしまえばまだ体力が万全ではないKAZの会社も連鎖で破綻してしまう。かといってこの会社と手を切って新たに抜けた穴を埋められる仕事が見つけられるのか?進むも地獄、退くのも地獄の八方塞がりの状態になってしまった。急に雲行きが怪しくなった頃に社長宛に1本電話がなった。

 「なるべく早くお会い出来ないだろうか?話したい重要な要件がある」

懸念していた会社の次男、専務からの電話だった。良い話ならKAZに掛かってくるはずだ。社長に会いたいということは良い話のはずがない。ある程度、予測はしていたとはいえ想像以上のスピードで進展していく状況にKAZは為す術もなかった。 

 

To be continued


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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編13

この時、開発した商品が現在の宮城興業の代表的な商品の一つのST(エステー)リラックスである。この開発秘話について詳しくは、また別の機会にじっくりお伝えしたいと思う。
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この商品の売れ行きは?

その結果を先にお教えすると巨額の開発経費を掛けたのにも関わらず当初の販売は全然振るわなかったのだ。社内評価は抜群で、「こんなに履いて歩きやすい靴は今までにない!」「これを売り出したら、たちまち蔵が建つ!」というものだったが、結果はそう甘いものではなかった。本当に評価される商品に育つ為には、さらに10年という期間が必要だったということだけお伝えしておこう。 

期待した成果を上げられなかったKAZではあったが、この間の貴重な体験を得てまた一皮剝けて行くのを感じていた。

いくら良い商品を開発しても、それをどこで販売してもらうのか?価格設定は適当なのか?

顧客の年齢層は?等々のいわゆるマーケティングを考えなければ商売に結び付かないということを学んだのだった。今までの自分が、あまりにも作り手のほうに寄りすぎていることに気付かされたのだった。そして『売りたい!売りたい!』という気持ちが強すぎていることにも気付かされた。バブルは崩壊し、日本経済はデフレの真っ只中、バブル時代に買い漁った商品もまだまだ手持ちにある。そう物は余っているのだ。

どの企業も価格が下がった分、量を売らないと売上が下がってしまうので、とにかく沢山売りたがっていた。KAZの会社では、すでに撤退していたが、ゴルフシューズの値段も以前とは比較にないほど低価格になっていた。そしてそれを専門にしていたメーカーは、1社また1社と消えて行く運命にあった。

KAZは、気付かされた。『欲しいと思っていない人に無理くり売ろうとすればするほど、人は逃げて行ってしまう』と。なのでやり方を変えた。

店では、お客さんが来てもすぐに靴は見せない。「貴方の足は大丈夫ですか?」と問い始めたのだった。じらし作戦という下心もなかったわけではない。しかし、まずお客さんの悩みを聞いてからという姿勢を示すだけで抜群の効果があった。

得意先への営業でもこの手法は、効果覿面だった。『この取引先には、この靴を!』と決めて商談に臨むことしていたが、実際に商談が始まってもその靴を焦ってテーブルに置くことはなかった。ただ持って行ったバッグに入りきれない体を装い、ジッパーが少し空いたところからつま先だけを覗かせておく。そしてたわいもない世間話をして「それでは!」と帰ろうとすると、決まって相手側から「ちょっと待って、その靴何?」と声が必ずかかる。そのバイヤーからすると『何も売ろうとしないで帰るということは、今日は他さんで大量の注文をもらったので十分仕事をして?当社からは注文はいらないの?』と勝手に勘違いしてくれる効果があった。そこからも、渋々を演じながらやっとテーブルの上に商品を乗せる。すでに作戦が功を奏し、こちらのペースで商談を進めることが出来たのだった。

少しだけ大人になり、商売というのも分かりかけてきたKAZは、商品開発の分野でも少しずつではあるが、力を出し始めていた。市場をよく観察し、トレンドのちょっと先を言っている商品を探す。まだ市場にあふれていない商品だ。英国バーカー社では作っていなかったが、滞在中は頻繁に目にしたマッドガードという靴だ。

底の周りに泥除けを意味する生ゴムが巻かれている。この商品が、セレクトショップに数点並び始めた時に、KAZの第六感がざわめきを感じた。早速、試作に掛かった。そして、営業は例の作戦である。名付けて『別に買ってもらわなくても平気です作戦』

本当にこれは効果があった。価格交渉でも有利に立てた。

『何故って?』だってこっちは別に買ってもらわなくても平気なんですから!

 この当時のKAZの会社は、まだまだ続く厳しい経済環境の中にありながら、なんとか踏みとどまっていた。つま先のデザインが70年代に流行した真四角の靴の企画が舞い込んだ時も市場にないことに着目し、先んじて設備投資をして大量の受注に繋げることも出来た。生産が間に合わず、かつて仕事を出してくれる立場だったメーカーに仕事を手伝ってもらうことにもなるほどだった。

 しかし、そんな状況が続いたのも束の間の事。わずかな福が訪れたと思うと、また大きな禍が忍び寄ってくるのが世の常なのであった。

まさに『禍福は糾える縄の如し』なのである。

To be continued


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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編12

1945年の敗戦後、日本はその試練を乗り越え見事先進国の仲間入りを果たすことが出来た。食糧難の時代もあった。信じられないかも知れないが、かつての日本製品は安い労働力を武器に『安かろう悪かろう』という時代もあった。しかし、資源に恵まれない国でありながら、国民性とも言える技術を重んじ、改良を加えることで徐々に品質を認められ一気に経済大国に上り詰めていく。それも2度のオイルショックなどの苦境を乗り越えて。

しかし、あのバブル景気という絶頂を迎え、その後の崩壊を招いてしまったのは何故なんだろう?現在でも「もう一度あの時に戻りたい」という人がいることが信じられない。何故、我々はそのことを総括出来ないでいるのか?バブル景気に踊らされていたのは一部の金融マンと不動産関係の人たちだけだったのか?調子に乗りすぎた日本をアメリカ(もしかしたら神様)から疎まれて仕組まれ、貶められたとは考えないのか?明治維新以降、西洋に追いつこうと頑張って『坂の上の雲』をつかもうと頑張り日露戦争で痛み分けに近いギリギリの勝利だったのにも関わらず、勘違いして昭和の大戦に敗れ、多くを失った経験を忘れてしまったのか?さもなければ、やはり日本人はまだ民度の低い、ただの俄か成金だったのか?

『禍福は糾える縄の如し』

人間万事塞翁が馬』

娑羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色盛者必衰のことはりを表す』

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これらの格言のどれか一つは必ず学校でも習って覚えてるだろうに、なんで日本国民は調子に乗っちゃたの?

東京23区の土地の値段でアメリカ全土が買える?

異常でしょう!異常!なんでそんなことになるの?

あの当時のあぶく銭をもっと有効に使っていれば、失った~十年なんてことにならなかったよね!

 「また、あの当時に戻りたい!」

 「ふざけんじゃねー、バカ!」

KAZが、英国の辛い経験ばかりの夢を見ているときにも、まだ日本国民は、バブルの余韻を追いかけていたのかもしれない?

 

 1997年、ウイリアムを失っても英国に駆け付けることも出来ないでいたKAZに、新たな希望を見出せる可能性を秘めた情報がもたらされた。バーカー社の新工場のオープニングセレモニーに招かれた際、父親と二人で立ち寄ったクラークスの専門店で気になる1足を見つけた。

 「おい、ちょっとこの靴見てみろ!」と父親。

 「はあ、何?」とKAZ。

長年靴作りに関わってきた父親である、一通りの製靴法は頭に入っている。しかし、その父親ですらどのようにして作ったのか判別つかずにいた。そのことはKAZにとっても同じだった。早速、1足購入し日本に持ち帰っての研究対象となった。10年以上前の出来事である。帰国後に早速、片足をばらし、どう作っているのか?と「あーでもない、こーでもない」とやったのだが核心に迫ることが出来なかった。資材関連や機械関連にも問い合わせたが、誰も答えを導きだせなかった。

そして10年が経った頃に、次々に情報が入ってきたのだ。

「材料の作り方分かりました!」

「あの靴を作った機械!判明しましたよ!」

日本では、まだ誰も作ったことのない製法の靴。やっとKAZにとってやりがいのある仕事が見つかった。クラークスと言えば、3日間の見学を許された会社であった。グッドイヤーを前近代的な製法とバカにされた会社でもあった。あの時は、『いつか見返してやる!』と心に秘めたのだったが、まさかその製法を取り入れることになるとは想像もしていなかった。だがKAZはその製法の靴で、今の会社の状況を大きく変えられると確信していたのだ。大きなチャンスが巡って来た。

禍福の禍から福に転じる絶好の機会だと感じていたのだ。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編11

ウイリアムが亡くなったという知らせを受けて、本来ならば何をおいてもすぐに英国に行くべきKAZだったが、それが出来なかった。確かに会社の状況はまだ万全ではなかった。それでも社長に願い出れば行けたであろうし、誰も止める人はいなかったであろう。でもKAZは行かなかった。いや行けなかったという表現の方が正しかった。

KAZは、バブル経済崩壊という日本の経済状況の中、会社経営が窮地に追い込まれ、その間、生き残るために忙しく奮闘してきていた。

約束であり最低限は礼儀として守らなければならないKeep in touch(キープインタッチ)も英語力の乏しさと忙しさを理由にして途絶えさせてしまったのも仕方ないと言えば仕方ない。

何を差し置いてでも会社の生き残りの為に今できることをやる。そう思って、理想の靴作りを一旦諦めて市場が要求する価格のみを追求した靴の生産に没頭せざるを得なくなっている状況。

理想を追い求めて会社を潰してしまうよりも現実的な対応をしてきたんだ。

KAZは、必死に自己弁護を試みるのだった。

でも、それは叶わぬことだった。

 

あれだけ苦労し、あれだけ世話になり、あれほど悩んで掴んだ貴重な経験と知識。

それを少しも活かせていない自分、そしてそこで受けた恩を返すことも叶わなくなった。

 

KAZを子供のように可愛がって、技術も惜しみなく教えてくれたウイリアム。

「Poor KAZ!」といつも心配してくれて、1年間暖かく見守ってくれたバーカー社。

どちらもなくなってしまった今、どうすれば良いんだ!どうやって恩に報いれば良いんだ?

 

レズリーは相当悲しんでいるだろう!ああ!どうすればいい!

やっぱりすぐに駆け付けて慰めてあげるのが、俺の役目なんじゃないのか?

 

3人の子供たちはどうしてる?なんでバーカー社を手放してしまったんだ?

誰か引き継いで守っていけただろうに?何やってんだ!

 

今の俺は、ノコノコ英国に行ける立場じゃない!

連絡も取らず、英国で学んだ事、一つも活かしちゃいねえ!

今更、カッコ悪くて行けるか!

 

この頃のKAZは、前にも増して頻繁に英国滞在時の夢を見た。必ず苦しい方の夢だった。あまりの苦しさに悶える夢だった。うなされて寝汗をかき、目を醒ました。

KAZが英国から帰国して10年が経とうとしていた。

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クリスマスの時に、七面鳥を切り分けるウイリアム。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編10

 日本経済は、バブル経済崩壊後、デフレが継続するという今まで体験したことない状況を迎えていた。物の値段がどんどんと下がっていく現象は、1年2年では、終わらなかった。あれほど好調で5万円も6万円もしたゴルフシューズの値段にしても「何とか3万円台で作れないか?」「2万円台はどうなのか?」という要請になりKAZが、考えていた下限の2万8千円という上代設定を下回る要請が出始め、ゴルフシューズ生産からの撤退を決断せざるを得なくなった。ゴルフシューズを作る場合はどうしても材料費が高くなってしまう。それの値段を下げることはリスクも高くなることを意味する。それよりは一般の靴で勝負する方が、まだましと考えたのだ。しかし、その一般の靴の市場もひどい状況になってきた。とにかく安くないと注文が取れなかった。崩壊したとは言え、まだバブル当時の余韻が残っており、安ければ売れた。物欲だけはまだあった時代だ。この市場に合わせる為、以前主要取引先の商品であった頃の作りをそのままに半値ほどの値段を設定し、自社ブランドとして売り出すことにした。

 品質の割に激安な価格の商品は飛ぶように売れた。それで会社の生産の埋めることが出来るようになった。しかし、KAZの心中は穏やかではなかった。相変わらず、靴の聖地である英国で学んだことなど一切役立てられない自分を感じていたからだった。

 

1996年4月、一本の電話がなった。「海外からの電話のようです」掛かりの女性からKAZは受話器を渡された。聞き覚えのある声だった。英国に渡った時に、空港まで迎えに来てくれた人であり、1年間の滞在を終えて英国を去る際にも空港まで見送ってくれた、バーカー社の部長のフレッドの声である。

「KAZ!驚かないで聞いてくれ」

「ウイリアムが亡くなった」

「え?」

「実は、1年前にガンが見つかって、ここ半年の間は入院していたんだ」

「え?」

「実はな、KAZ!バーカー社はもう人手に渡っている」

「え?」

「余命が残されていなと分かったウイリアムが決断したんだ」

「今は、中東の人が経営している」

「え?」

フレッドが語るすべてのことが、信じられない情報ばかりでKAZは返す言葉が見つからなかった。

その時、KAZになんと返答したか?今でもはっきりと思い出すことが出来ないでいる。

おそらく人の死を聞いて悲しみを表現する時に使う英語

I am sorry to hear that!」とだけは必死に発した。

あまりにも突然で、あまりにも悲しく、あまりにも衝撃的な情報にKAZは、呆然と立ち尽くすのだった。

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亡くなる前に日本人商社マンと写真に写るウイリアム

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編9

リストラと書くと軽い響きだが、実際はとても重い行為のことである。160名いた社員の40人強、25%の人員整理が必要だった。当社には、労働組合があり指名解雇は許されない、わずかばかりの退職金の上乗せ措置をとり、希望退職者を募った。申し出たのは、入社から10年経っていない若手がほとんどで、将来性が感じられないと言って去って行った。KAZは、現在の社長のことよりも、その後を引き継ぐであろう自分に対しても『NO!』を突きつけられたと感じていた。

 6割の仕事を失った後、幹部の必死の取り組みと、さらにリストラを断行したことにより、何とか出続けていた赤字を止めるとことは出来た。やっと地に足が着く体制にはなったものの、1年で出した巨額の赤字により、経営を続けるのにはギリギリのところまで追いつめられている。この頃のKAZは、まだ『いつまで下請けに甘んじてるんですか?いつ仕事を切られるかわからないんですよ!』と発言したのはいいが、それに対する方法を見いだせないジレンマに陥っていた。英国で学んだことも十分に生かし切れていないことにもジリジリしていた。50周年の記念事業の一環で開発した『BASIC35』は久々の自社ブランドであり、これを起爆剤にと売り出したが、これもビジネスとしては上手くいかなかった。買ってくれたお客様の反応はすこぶる良かった。しかし、取り扱ってくれる店がなかったのだ。考えてみれば簡単なこと、ただでさえサイズが35種類もある。それにデザインやカラーを揃えていったら在庫だけで店が一杯になってしまう。こんな効率の悪い商売をしようなどという商店主はいなかったのだ。

 なのでKAZは、取り敢えず目の前にある仕事を出来るだけかき集め、そして効率よくこなして会社を維持していくしかなかった。

 バブル経済が崩壊して以降、数年間、KAZは、英国滞在中の苦しかった時の夢を見た。それも頻繁にである。寝苦しくなって、夜中に目を覚ますと必ずと言って英国での夢であった。楽しかった思い出もあったのだが、見る夢は決まって苦しかった時の思い出だった。苦しい会社の経営状況を理由にして、約束したはずの『Keep in touch』すら守れていない自分への呵責の念がそうさせていたのであろう。

 

1995年1月17日5時46分、大変なことが起こった。兵庫県南部で巨大な地震が発生したのである。後に、阪神・淡路大震災と命名され、戦後最大規模の被害をもたらした災害である。KAZが、朝早く会社に出社すると急に社長に呼び出されると、テレビの画像には、その被害の状況が映し出されていた

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その日の夜のニュースでは、神戸市長田区で大規模な火災が発生しているとの報道があった。長田といえば、東京の浅草と並ぶ靴の一大生産地である。どうやらその産地のメーカーに置いてあった接着剤などの燃えやすいものに次々に引火していったののだった。長田の街が、夜にもかかわらず昼のように明るく真っ赤に燃えていた。この時の地震と火災により長田の靴産業は壊滅的な損壊を被った。

 では、次に何が起こったか?これをきっかけにこれ以降、中国からの輸入が、爆発的に増えたのである。長田が壊滅的な損害を受けた時、問屋の多くが、当分の間生産再開は無理と判断し、中国から商品を調達すべく動き出した。しかし、その後第一陣で入荷した中国製商品は、日本国内で販売するにはあまりにも粗悪なものだった。その多くが、売り物にならず廃棄された。普通ならこれで終わるはずなのだが、人間は時として不思議なことを考える。『1回目は散々損をさせられたから2回目はきっちり儲けさせてもらうぞ!』とばかりに、諦めることなく中国に出かけて行ったのである。やはり、日本人は品質には相当うるさい。世界基準はクリアしていても日本基準は一段と高いところにある。中国人にすべて任せていてはその基準は守れないと日本人を長期に逗留させて品質管理を徹底するようにしたのである。かくして中国が世界の工場と呼ばれるようになるまでの期間、すっかり日本の靴市場の多くを中国製品に奪われることになって行ったのであった。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編8

 バブル景気という現象にあれだけ浮かれ踊らされていた日本の経済の好循環は、静かにそしてあっという間に崩壊へと向かっていった。考えてみれば、プラザ合意に基づく円高の影響で一時的な不況の後、極端な金融緩和策によって持たされた景気回復、その後に金余りが起き、次に株や土地にその余った金が次々と投資されて、実体以上に膨れ上がった幻のような異常な景気。いつ消えてもおかしくないまさしく泡ぶくのように膨らんだだけの危険が潜んでいる好景気に日本中が狂っただけのことだったのであった。

 KAZの会社へも、様々な条件の投資案件が持ち込まれていた。ただ何となくそこに潜むその怪しさを感じ、手はださなかったのであった。では踊らされなかったか?と言えばそれも違う。会社でも創業以来の最高の業績を上げ有頂天になってはいたのですから。

 

生産調整の為、1ヶ月だけ仕事を出せないとの電話を貰った際にも、実は高をくくっていたのでした。『まあ、1ヶ月ぐらいだったらしょうがない』と。ところが事態はそんな悠長なものではなかったのです。2ヶ月経っても3ヶ月経っても変わらなかったのです。その一番の取引先からの注文は実に生産の6割を占めていました。当時の社員数は160名。その仕事なくなってからは、あっという間に工場の中が、閑散としてきました。

KAZが帰国後すぐに取締役会で発した『いつまで下請けに甘んじてるんですか?いつ仕事を切られるかわからないんですよ!』の発言が現実のものとなっていた。しかし、その発言をしたKAZ当人は、何をすることも出来ずにいた。

 この時期、不況に陥った大企業も経営悪化を食い止めるため人員整理を始めていた。その際、経営側の後ろめたさを隠すために英語が使われ出した。いわゆる『リストラ』である。本来は、企業の組織再構築を意味し、人員を増員することも含めた言葉であるが、『首切り』という言葉があまりにも強烈な響きを持つため、リストラというのを使ったのであった。

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KAZは、社長である叔父にリストラを断行せざるを得ない旨を打診した。答えは『No!』であった。何よりも人が大切と考え、人材の教育が経営の根幹と考えている社長であった。世の経営者の多くが経営の神様・松下翁を尊敬し、どんなに不況でも、人員整理などしなかった松下翁の経営哲学を範としていた。

仕事を切られたから、毎月1千万円の赤字が出ていた。1年続けば1億以上の損失が発生する。リストラは出来ないとトップが判断したのだから、この状況を、別の方法を考え、なんとしても脱しなければならない。社長を筆頭にKAZも含めた幹部は、出来ることのあらゆることに挑んだ。新規顧客の開拓、地元での販売会の開催、外注に頼っていた仕事の内製化、トヨタ生産システムへの挑戦。もちろん仕事が中断している一番の取引先には、発注を再開してもらえるよう必死のお願いをしていた。

これらの努力は決して徒労に終わったわけではない。かといって大きな変革と成果もたらすこともなかった。バブル経済の崩壊が、膨らんだ泡が徐々に消えていくのと同じように、結果だけみれば、残念ながら水泡に帰したと言わざるを得ない。結局、消えた6割の仕事が、戻ることもなく1992年には巨額の赤字を計上しなければならなかった。そして翌1993月年、このままでは会社は持たないと判断した社長である叔父は、断腸の思いでリストラすることを決断したのだった。

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編7

 英語にKeep in touch(キープインタッチ)という言葉がある。連絡を取り合うという意味だ。KAZが、英国を離れる際に、多くの人がこの言葉を発した。実は帰国したKAZにとって一番悩ましい問題がこのことだった。ただでさえ英語の苦手なKAZである。聞くのも話すのも苦手なのだが、書くとなると更に文法力が必要になる。KAZが英語を苦手としているのは、まず頭の中が日本語すぎるのだと思う。だから今現在でもネット翻訳機能を使ってさえ、完璧な英訳にはならないのだ。その当時はまだ、便利な電子メールだってありゃしない。そこで手紙になるのだが、自力でなんとか近況などを書きだそうとは試みても、明らかに変な英語にしかならなかった。頑張ってクリスマス・カードだけは書いて出した。それが精一杯だった。それも5年と続かなかった。

 

日本でバブル景気が始まったのがKAZが帰国した1986年。絶頂を迎えていた1989年には日経平均株価が3万8千円を超えた。1990年なると会社の2代目の社長を17年務めたKAZの父親が急遽社長を辞めて会長になると言い出した。なにやらその頃になると、東京から会社にやってくる若手のデザイナーやバイヤーのファッションや言動にとてもついて行けないと感じていたらしい。KAZはまだ32歳。社長にするには、若すぎるし、まだまだ経験が足りてないと考えた父親は、長年専務職で父親を支え続け補佐をしてきた、義理の弟を社長に据えることにした。つまりKAZの義理の叔父にあたる人である。叔父が社長に就任した初年度、会社は創業以来、最高の売上と利益をたたき出した。しかしそんな中、浮かれ続けたバブル景気も政策の錯誤などもありゆっくりと限界を迎えるのであった。1991年には、その崩壊が始まっていた。

 その1991年9月。祖父が日本軍の要請を受け、宮城県仙台市にて前身である宮城工業を創業したのが1941年であることから、KAZの会社は、ちょうど節目の50年目を迎えることになった。専務となっていたKAZに創業50周年の記念事業に取り組むよう厳命が下った。

 叔父が大切にしていたのは人を育てること。その為に、『必ず社員たち向けの講演会を開くこと」という条件付きであった。その他に何をやるのかはすべて任された。そこでKAZは、これまでの集大成と今後のビジョンを示す意味で『50周年記念個展』の開催と『ミニミニ自主映画』を公開することとした。そして、すべての記念事業のテーマを『和創良靴』とすることに決めた。『和』には日本らしさと社員の団結という意味が込められていた。

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 取引先や日頃お世話になっている近所の住民を招待し、開催された個展には、これも叔父である社長の

提案で『BASIC35』という新開発の商品が並べられた。これは靴の長さが7サイズと幅が5

7×535種類のサイズバリエーションを展開したもので、今の当社の代表的ビジネスに成長したカスタムオーダーを開発する際のヒントになった商品である。自主映画の上映では、今後コンピューター(CADやCAM)を使った生産が主流になって行くという提案を社員が寸劇的に演じたものに仕上げ、笑いを入れながら今後のビジョンを示せた。

 来ていただいたお客様にも喜んでいただき記念事業もひと段落と思っていた矢先、一本の電話がなった。

 当社一番の取引先からの電話だった。

 「ここのところ、売り上げが急に落ちて、在庫が増えて倉庫がいっぱいなんです。」

 「申し訳ないが、生産調整をするので、来月1ヶ月の仕事の発注が出せないんです!」

 

バブル経済崩壊し、不況の大波が、当社に押し寄せてきた瞬間である。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編6

帰国後のKAZの話を続けます。

ファクトリーショップでのオーダーの商売での失敗などを経験しながら、今後の会社の将来のことを考えながらも、通常は目の前の仕事に追い立てられるKAZでした。その頃の日本はバブル経済に踊らされ、最盛期を迎えていたのです。会社の経営状態も万全でもちろん下請けの仕事も順調そのもの、OEMの仕事の中でもゴルフシューズの受注が好調で売上全体の3割までになっていました。その当時はまだ革底のクラシックタイプが主流だったのです。KAZの会社では、ゴルフ用品販売大手のカタログの靴のページのトップを飾る高額な靴の多くを製造していました。価格は5万円程。そして次なる要求は、いかに高い靴に仕立てることが出来るかでありました。なのでウミガメの革(ワシントン条約で制限)を使って10万だとかオーストリッチで30万~50万と、意味もなく高いものを作ることになっていきました。何故か?土地を転がして莫大な利益を得た客が商品を見もしないで「一番高いものをくれ」と言っていたからだそうです。そんな風に日本全体がバブル経済に踊らされていた時代でありました。

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この時期は、洋服にしろ靴にしろ金額もさることながら量的にも売れた時代です。バーゲンになれば、一人で5足も6足も買っていく。『足が何本あるんですか?』『もしかして靴屋さん?』と言いたくなるほど、皆が平気で買っていく、まさにバブル経済だったのです。

円高の影響で日本人はブランドものや高級品を買い漁っていたので、海外からは、お金持ちの国日本は重要な輸出先と目されるようになっていた。靴業界の展示会も派手に行われており、ヨーロッパ各国からの出展があった、幕張メッセで行われた総合展に英国メーカーのコーナーが作られることになった。バーカー社の靴の輸入に一役買うつもりになっていたKAZは、勇んで駆けつけ会期中は、終日バーカー社の小間で手伝うことにした。英国からは、バーカー社をはじめ、トリッカーズ社、チーニー社、サージェント社、などが出展しており、KAZは英語もろくに出来ないくせに各社の通訳までしなければならなかった。残念ながら、会期中バーカー社では、1足も注文が取れなかった。原因は、為替の影響で大分安くなっているとはいえ、やはりバーカー社の靴はまだ価格が高かった。高級靴といえばイタリア製のブランドもの、英国製で名前が知られているとすればチャーチ程度、本格的な靴の需要はあまりなかったのです。但し、ファッションとしての感性に磨きをかけているセレクトショップのバイヤーなどは、トリッカーズの小間に押し寄せ、比較的価格のこなれているチーニーやサージェントの靴には注文を出していきました。KAZはこの結果に、提携によるブランド生産をしてきた長い間、そのブランドを広めることの出来なかった我が会社の責任と肩を落とすのだった。

 

補足 この英国からのセールスマンの滞在中、アテンドをする立場として、夜の食事の場所などのも案内することになった。考えた末、一日目はしゃぶしゃぶ、二日目は焼き鳥にした。英国滞在中に英国人の味音痴ぶりには辟易していKAZなので、「なんだこれ?食べられるもんじゃない!」とか言い出すんではとハラハラしていたが、両方とも大好評だった。彼らはその後も何度か来日したが、毎回同じところに連れていって欲しいとせがまれるほどのお気に入り料理となった。

また、彼らに驚かされるのは、そのタフネスぶりであった。60歳前後の面々なのだが、靴のサンプルの入った大きいスーツケースを2個と滞在中の私物の入ったこれまた大きいバッグを肩から掛けて、どこにでも自ら運んで移動するバイタリティーがあった。体力に自信のないKAZは、「このぐらいでないと世界では戦えないな!」と感じた瞬間であった。

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編5

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ヨーロッパには、ギルドと呼ばれた商工業者の職業別組合がありました。古く英国ではその点で、靴を作る人の呼びかたとしてコードウェイナー(Cordwainer)とコブラ―(Cobbler)の2種類の分け方をしていたようです。どう違うのかというと前者は新しい革から新しい靴を作る権利を有している人たちであり、後者は靴の修理を主な仕事にしており、もし作る際も使い古した革、つまり何かをばらした革などなら靴を製造しても良いという制限をつけていたらしいのです。(確かではありませんが、職人たちの権益の匂いがします)

 


 

ドイツのギルドの紋章で左上が靴屋

 

 

 

 

 

 

 

今は別の学校に吸収される形で閉校されてしまいましたが、ロンドンにはコードウェイナーズ・テクニカル・カレッジという名の、靴の学校がありました。パトリックコックス(今は靴の仕事は止めてしまったのか?この人の靴好きでした)や今も現役で活躍しているジミー・チューなどの靴のデザイナーたちを輩出しています。

 

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KAZが英国に渡った当時、ヨーロッパに靴の勉強に行く人がいるとすれば、靴メーカーの社長の子息がいる程度でした。KAZと同じように、英国のどこかで靴を学ぼうとした人は、靴の勉強は途中で止めて、どうやらパンのおいしさに惹かれパン屋になった人がいるとのことです。つまりその当時は、ごく稀だったのです。

 

ところがその後、状況は一変しました。その先陣を切ったのがギルド・オフ・クラフツを主宰するかの有名な山口千尋氏です。彼はなんとKAZの帰国した翌年の1986年に英国に渡り、1987年からコードウェイナーズで学んだあと1991年までの5年間、英国に滞在して靴工場で働きながら学び、最終的には日本人初のギルド オブ マスタークラフツメンツという称号まで取得した方です。靴メーカーの息子とかではなく、自ら靴作りという職業に、それも若い時から目標を定め、着々と歩みを進めて来た方です。(KAZとは格段の違いです)帰国後、まだ時代が追い付いていなかったこともあり、すぐにビスポークの道に進むことはできなかったようですが、やがてその時代が到来するや否や、やはり先陣を切ってそのビジネスの展開を始めました。

 

彼の後に続けとばかり、同じコードウェイナーズ出身の柳町氏、大川由紀子さん、卒業後にKAZがいたバーカー社勤務の後、ジョンロブで長年パターンナーを務めている黒木氏などです。更には、やはり英国の靴学校であるトレシャムインスティテュート出身の福田氏、イタリア・フィレンツェのロベルト・ウゴリーニ氏の元で学んだ、神戸の鈴木氏、福岡の清角氏、フィレンツェの深谷氏など、数えきれないほどの若者が現在ビスポーカーや靴の作りてとして活躍しています。このようにヨーロッパで靴作りを学び凱旋帰国した人や国内で地道に腕を磨き上げた人も含め、現在の日本には100店舗ほどの靴のオーダーメイドの店が出来ました。

 

KAZは近い将来必ず『世界で素晴らしい靴を作るのは日本人だ!』と言われる日が来ると言います。いやもうすでに来ているのかもしれません。その理由は、日本人の職に対する考え方だと言います。

 

手に職を付ける。つまり技術を身に着けるということ。

 

決してお金を中心に考えるのではなく、情熱をかけて作った日常使う道具に美的な感性と機能性を持たせること。その作り上げたものを通じて使用してくれる人に幸せを感じてもらいたい。自分の一生をかけてそれらの価値を見つけようとするストイックなまでの追及心。

 

そういった特殊なDNAを持つ人種が日本人なのかも知れません。

 

 

 

To be continued

 

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編4

 Photo_2 KAZは、ファクトリーショップ『タフ』1号店の初代店長に就任した。(後にも先にもここ一店舗しかないのに1号店とはこれ如何に)

 ショップを作ったはいいが、KAZは、困っていた。当時の会社は、完全な下請けが6割で残りの4割は相手先ブランドの生産、つまりOEMである。自社商品がないのだから売るものがないのである。売るものがないのにショップを開いてしまうあたりが、おバカなKAZらしいところでもある。まずは形からなのだ。メンズライクな女性ものなら若干作ってはいたものの所謂レディース向けという商品も手掛けていない。ショップとなればお客さんの半分は女性なわけで、その人たちにも売るものがない。取り敢えず女性向けのエレガントな商品は仕入れすることにした。そして主力の男性用は、出荷前のOEM商品を一時借りてショップに並べ、出荷時期が来たら、また別の商品に切り替える作戦である。一応、店らしい格好にはなった。しかし、問題は仕入れた女性向けの商品は良いとして、主力の男性には何を売って商売をしようとしていたんだ?という疑問。

そこは、商売上手のKAZです。男性のお客さんが来たら、取り敢えず並べてある商品を見せておきながら、

「申し訳ございませんが、こちらは販売出来ないんです」とまず言う。するとお客様は

「はあ?・・・」するとすかさずKAZは、

「もしよろしければ、私がオーダーでお客様のお好みの一足をお作りいたしますが?・・・」

という商売である。つまりオーダーメイドの商売である。

 

結論から申し上げましょう!

このオーダーメイド商売の商売は、大失敗に終わりました。

・・・・「あ・あ・悲しい」・・・・

今になれば「ああ、そういうことね!」と合点もいくのだが・・・。

当時のKAZは、せっかく英国に靴作りの修業に行っていたのに、英国のビスポークという概念のことを全く知らなかった。滞在中に何度もロンドンを訪れてもいたのに、結局、セント・ジェームス宮殿前のビスポークの老舗ジョンロブ・ロンドンの前を通り過ぎたことはあっても店の中に入ることもなかった。何だろう?敷居が高かったせいもあるが、興味がないというか?別次元の店であり、学ぶべき対象とは考えていなかったのだ。但し、この店は、『英国王室の御用達でオーダーで靴を作るんだが、1足目では、ぴったり合う靴にはならず、最低3足は作らないといけない』らしいという変な情報だけは、知っていた。KAZが、学ぼうとしていたのは、工場生産の靴であり、量産靴のデザインだったりブランディングであったりが中心と捉えていたのだ。

ビスポークという語源は、『Be spoken』から来ているという人もいるぐらい、お客様と作り手がお互いに話し合いを十分行って、お互いに納得した上で、実際に靴の製作にかかると言われている。だから出来上がってから言ってない&聞いてない等のクレームが起きないようにしてあるのだ。これから作るもの=まだ形のないものを創造&想像することは、お互いに難しい。作りてはお客様の頭の中身を完全に理解するのは無理なわけでその逆もしかりなのだ。だからこれでもか!というぐらいにコミュニケーションをしないとクレームの嵐になってしまう。

もう分かって貰えたはずです。KAZの場合、このコミュニケーションを十分に行わないでオーダーの商売を始めてしまったのです。

KAZの頭の中はこうでした。お客様が来る。デザインの要望を聞く。革を選んでもらう。足を測る。すると「OK!後は私に任せてください!」と言って自信満々。価格もその当時でも破格の2万円~3万円。この価格でオリジナルの靴を作って上げてやる。でもラストを削るほどではないから、工場にあるラストの中から適当に合いそうなのを選ぶ。パターンは得意。多少足に合わなくても、それはジョンロブ・ロンドンでさえ1足目からは合わないと言ってるんですからと開き直る有様。こんなんだったんです。

「でもね!お客様の半分以上はすごく喜んでくれたんですよ!」

「その場で、もう1足作ってという人もいました!」

「でも、半分近くの人が、店で怒り出すんですよ?」

「こんな靴、注文した覚えがない!ってね!」

「こんなにカッコよく!それもこんなに安く作ってくれるところ、ありませんよ!ってね」

「これが、分かってくれないんだよなー!」

 

こんな考えだから失敗したんですよね!

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編3

Photo_2  新しい工場の落成記念セレモニーに出席し、日本に帰国したKAZは深く考えなければならない事がありった。当時KAZの会社(もちろん宮城興業のことですが)で作っていたバーカーブランドの靴は、ただそのブランド力を利用して販売に繋げようとしていただけの代物。KAZにとって、製品の出来としては、まったく満足出来る物ではなかったのである。そしてKAZが、バーカー社で作られているものに負けじと作った完全コピーを目指した靴は、完成はしたものの、結局英国で作られた製品をそのまま輸入したほうがはるかに安いということまで判明してしまったのである。この時点で、KAZの気持ちは、またしても相当落ちてしまっていたのです。夢をもって英国に渡り、苦労しながらも何とか乗り切った。そして凱旋帰国とまではいかないまでも、そこで学んだ経験と知識を宝物のようにして帰って来た。そして父親が経営する会社に新風を巻き起こそうと張り切っていた。しかし、現状を考えると『英国で学んだことがまったく役に立たないのではないか?』と考えはじめていたのであった。

 悩みに悩んだ結果、KAZが出した結論はこうであった。今後、いっさいバーカーブランドの生産と販売を取りやめること。そして今後は、英国のバーカー社で作られた製品のみを本当のバーカーブランドとして日本国内で売れるように努めること。

 たまたま、当時のKAZの父親が経営する会社の状況は大手からの下請けの仕事が順調でバーカーブランドの靴の生産や販売はわずかしかなかったこともあり、それに頼る必要もなかった。そんな訳で父親も「お前がそう思うんなら仕方がない」と簡単に同意してくれた。

 バーカーブランドの件は落着したが、肝心なことは解決していなかった。それは、今後会社が目指すべき方向のことである。

確かに現在の経営は下請け仕事が潤沢で安定している。

父は更に下請けの比重を上げた方が良いと考えているようだ。

本当にそれでいいのか?下請けに甘んじることが悪いわけではないことは分かっている。

自社商品だけで現在いる160名の従業員を養っていけるほどの実力などもちあわせてもいない。

でも万が一、親会社から仕事を貰えないような事態が生じたらどうする?

更に、以前から議論されている自由貿易に移行したらヨーロッパからの輸入品が大量に入ってくることになる。

このままの仕事を維持していくだけで、その時になって本当に戦えるのか?生き残っていけるのか?

 残念なことに、まだこの時のKAZには、これらの問題に対してどうして行けば良いのか?

という明確な答えは持ち合わせていなかった。

 但し、その答えを見つける為にも、少しだけ一歩でも半歩でも前に向かって歩き出す必要があった。

ある日、父親に切り出した。

「工場の前に小さくても良いので店を出させてください」

こうして宮城興業の工場前にファクトリーショップ『タフ』が開設されることになった。

 

To be continued

 

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編2

年が開けて1986年になると、ウイリアムからKAZ宛に5月に建設中だった新社屋のオープニングセレモニーを開催する旨の招待状が届いた。行かないわけには行かない。KAZは、社長である父親と出かけることにした。たまたま同じ時期にイタリアのミラノで靴の展示会があり、業界でその視察ツアーが企画されており、その間だけツアーから抜け出すことも可能ということだった。かくしてKAZと父親のヨーロッパへの珍道中が始まった。 

 

 

 KAZが予想していた通り、純日本人の父親は、最初の目的地のホテルに着くなり「だめだ日本食を食べないと力が出ない」とか言い始めた。日本をたってまだ1日も経過していないのにである。早速、湯沸かし器をフロントから借りてきてレトルトのごはんとみそ汁を作らなければならなかった。

 

 

 バーカー社には、セレモニーの前日に入った。ウイリアムをはじめ、スタッフとの半年ぶりの再開である。前夜祭には、世界中からバイヤーや関係者が集まった。その場で、発表されたのは、明日のセレモニーのメインゲストが、なんとなんとエリザベス皇太后だということだった。発表後にウイリアムからKAZに伝えられたのは、「貴方たちは、日本からはるばる来てくれた特別なゲストだから、皇太后をお迎えする際は、玄関脇に並び、お言葉を頂戴する役を引き受けてほしい」というものだった。父親の方は、意味もわからずのほほんとしていたが、KAZにしたら一大事だった。日本でも園遊会に呼んで貰える機会など120%ないのに、なんと英国王室の皇太后陛下から直接のお言葉ですから、それゃ、びっくりです。

 

 早速、ウイリアムの家まで行ってレズリーにその場合の礼儀作法をレクチャーしてもらうことに。すると

 

「まず最初の質問に対しては・・・何々です。Your majesty.と答えなさい」

 

「その次からは・・・何々です。Ma’amでいいんですよ」と教えられた。

 

Your majesty』(ユア・マジェスティ)とは陛下ということであり、

 

Ma’am』(マーム)とはマダムの英国流の言い方で目上の女性に使う言葉であった。

 

 KAZの方は、練習すればなんとかなるが、問題は父親の方である。何度も教えるのだが、要領を得ない。さらに時差ぼけで人前で居眠りまで始める始末である。レズリーがそんな父親を見かねて「今日のところはこの辺にしてゆっくり休んだ方がいいわよ!」と気遣ってくれたのでした。

 

 いよいよセレモニー当日です。新社屋の周りには、市長をはじめ街のお歴々の方たちや世界各国からの招待客でごった返しています。大きなホールには、その日特別にケータリングで用意された、たくさんの料理や飲み物が持ち込まれていました。招待客が全員着座するとウイリアムが壇上に立ち、主催者のスピーチを行いました。理由は分かりませんが、静かな声で抑揚もありません。もちろんマイクは通していましたが、KAZはこのスピーチ、一言も理解出来なかったのでした。心の中で、『滞在中とは、全然違うしゃべり方。あれでKAZにも分かるように話してくれてたのは、大分苦労してたんだろうな』と改めて思ったのでした。

 

 午後になり、主賓のやってくる時間になりました。上空からヘリコプターが飛ぶ音がけたたましく響いてきました。近くの教会の裏手の広場に着陸するということだった。玄関先で出迎える予定のメンバーの緊張が一気に高まった。そしていよいよその時が来たのです。

 

 玄関先に皇太后陛下を乗せたリムジンが到着した。案内役はもちろんウイリアムが務めている。大きなドアが開かれると白いドット柄の入った青紫のワンピースを身にまとったエリザベス皇太后が軍服姿にサーベルを腰に差した侍従を従え、歩きだされました。するとその場が一気に花の匂いに包まれたような空気に変わりました。非常に高貴な香りに満たされたのです。

 

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一番最初に市長にお言葉をおかけになり、次にはメインのゲストたちの番になりました。そしていよいよKAZと父親の番になりました。その時事件が起こったのです。普通の流れからすれば陛下からお言葉がかけられ、それに丁寧に答える。そういう流れなのだが・・・。なんとKAZの父親は先手を打ったのだ。それも・・・。

 

「どうも!どうも!」とやらかしてしまったのです。それも大変にこやかに。めっちゃ大きい声で。ホント、その辺のお友達と久々に会う感じのフレンドリーな感じで。

 

陛下は一瞬、たじろいだかに見えたが、そこはさすがに高貴さと品性を持ち合わせ、さらに場慣れもしていらっしゃるお方。我々凡人とは違う貫禄。父親の方はサラリとかわし、KAZの方を向いて言葉をかけた。

 

「日本からいらしたの?」と。KAZは練習通り「Yes,Your Majesty!」と無難に答えて難局を乗り越えた。

 

 

 

 この時の写真は、翌日の地元の新聞にでかでかと取り上げられることとなった。そう、その日以来、KAZたち親子は、英国では『サー』の称号をもらったと同じ格を持つ日本人となったのである。(うそつき!)

 

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参考までに 

 

このエリザベス皇太后陛下は、エリザベス二世(現・英国王、女王陛下)の実母であり、前国王のジョージ6世の王妃であったお方である。ジョージ6世の兄のエドワードが離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリスとの結婚を選び退位したスキャンダルは有名。ジョージ6世は生来病弱なうえ吃音や足の障害もあった。これらの事実を映画化したのが『英国王のスピーチ』。吃音を克服しながら英国民に語りかける国王に感動。是非ご覧いただきたい映画です。

 

 

 

 

 

 

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本日より横浜タカシマヤに出展中

本日(1月9日)より1月14日(月・祝)の会期で開かれている
~匠のこころ・熟練の技~
現代の職人たち展に出展しています。
場所は横浜タカシマヤ・8階催事場になります。
Img_20190109_095956 全国各地から53の工房が一堂に会し
山形県からは当社をはじめ
ぶどうつるバッグのつる工房さんや
鋳物の雅山さんが出展しています。
この機会に是非ご来場ください。
(写真は人気のスニーカー)

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編1

 

 この拙い文章を読んでくださっている方々は、賢明な方たちですので、すでに百も承知であることは、合点承知の助でありますが、改めて発表します。

 

『KAZは』などと三人称を使っておりますがKAZ=自分のことです。

 

そんなの疾うに分かってるって!ハイそうでした。

 

 でも何故三人称にしなければいけなかったか?KAZの気持ちを考えたことはありますか?そうです、そこが問題です。そして普通に『滞在記』でよいものをわざわざ『漂流記』とした訳をもう少しお話させていただければと思っているのです。そんなことで英国から帰国してからのKAZの話を続けます。

 

Photo

 

 


 

 KAZが英国から帰ってきて1番初めにしたことは、近くの薬局に行って白衣を買ってきたことだった。KAZらしく、まずは格好からということでした。完全に英国流にかぶれていたのです。親父が経営する会社に戻り、工場の中を白衣の裾をひるがえして歩き、各工程の職人たちには聞いてもいないのに得意げに「英国ではこうするんだ!」と言って回り、ベテランの職人を白けさせていたのです。取締役会でも、「いつまで下請けに甘んじてるんですか?いつ仕事を切られるかわからないんですよ!」とか、人の意見に対しても「だから駄目なんですよ!」と発言し、「じゃあ、どうすればいいんだ?」と聞かれると、実は具体的な改善策など持ち合わせもていない。「本場の英国ではこうでした!」と答えるのが関の山だったのでした。

 

社長である親父にも「お前変わったなあ!」と言われる始末。この『変わった』発言は決して良い意味で使った言葉ではありません。父親からすれば、大人しくなんでも言うことを聞いて、可愛いかったはずの我が息子が1年間の英国生活で変に生意気になって帰って来た、つまり悪く変わったということなのでありました。

 

社員たちからも完全に浮き上がった存在になっていました。もちろん誰も面と向かっって直接何か言う人はいなかったのですが、蔭では『あのバカ息子』という囁きは上がっていたのでした。KAZは、そいな雰囲気が会社に漂っていることは重々感じてました。しかし、敢えて気に留めないようにしていたのです。『自分が悪いんじゃない!自分の成長を認められるのには時間が必要だ!だって自分だいぶ先行ってるし!』と思っていたのでした。1年間で完全に英国にかぶれ、英国第一、英国原理主義者と化していたのでした。

 

 

 

 次にKAZが取り組んだのは、『バーカー社で作っている靴そのものずばり』を作ることでした。その為には、材料すべてを英国から取り寄せる必要がありました。残念ながら当時の日本では、同品質のものを調達することは出来なかったのです。ラスト(靴型)を削り、パターンを作り、すべて本家バーカー社の英国流で作ってみました。ほぼ満足いくものが出来たのです。KAZは出来上がった靴を「これが本物ですよ!」言って、みんなに見せては自慢していたのです。これで少しは自分を見直してくれるだろうと悦にいっていたのです。そして早速、量産して販売に繋げようと見積をしてみたのでした。驚愕の結果が出たのです。なんと英国バーカー社で作った靴をそのまま輸入した場合の1.5倍の価格になっていたのでした。

 

 

 

補足 英国の通貨はポンドですが、大英帝国時代は基軸通貨でした。今はその座をドルに奪われてしまいましたが、1964年までは、固定為替で1ポンド1,008円だったそうです。KAZが滞在していた1984年から1985年当時は360円程でしたが、その後は円高が続き数年後には240円程度になっています。一方、日本はバブル絶頂に向かっている時期でもあり、人件費なども世界最高水準に達していました。オックスフォード大に客員教授として招かれても年俸が安くてとても行く気になれないという人が出るほど為替が大きく変動していた時期です。なので靴の見積の件も為替の変動が多きく影響しています。

 

 

 

To be continued

 

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仕事始め

新年明けましておめでとうございます。
当社は本日が仕事始めの日です。
年末30日から新年6日までの8日間のお休みで
心も体もリフレッシュしました。
新しい年も亥年だけに猪突猛進の勢いで頑張ります。
皆様にとりまして素晴らしい年になりますことをご祈念いたします。

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