カテゴリー「社長のつれづれ独り言」の記事

KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編7

 英語にKeep in touch(キープインタッチ)という言葉がある。連絡を取り合うという意味だ。KAZが、英国を離れる際に、多くの人がこの言葉を発した。実は帰国したKAZにとって一番悩ましい問題がこのことだった。ただでさえ英語の苦手なKAZである。聞くのも話すのも苦手なのだが、書くとなると更に文法力が必要になる。KAZが英語を苦手としているのは、まず頭の中が日本語すぎるのだと思う。だから今現在でもコンネットの翻訳機能を使っても完璧な英訳にはならないのだ。その当時は便利な電子メールだってありゃしない。だから手紙になるのだが、自力でなんとか近況などを書きだそうとは試みても、明らかに変な英語にしかならなかった。頑張ってクリスマス・カードだけは書いてだした。それが精一杯だった。それも5年と続かなかった。 

日本でバブル景気が始まったのがKAZが帰国した1986年。絶頂を迎えていた1989年には日経平均株価が3万8千円を超えた。1990年なると会社の2代目の社長を17年務めたKAZの父親が急遽社長を辞めて会長になると言い出した。なにやらその頃、東京から会社にやってくる若手のデザイナーやバイヤーのファッションや言動について行けないと感じていたらしい。KAZはまだ32歳。社長にするには、若すぎるし、まだまだ経験が足りてないと考えた父は、長年専務職で父を支え続け補佐をしてきた、義理の弟を社長に据えることにした。つまりKAZの義理の叔父にあたる人である。叔父が社長に就任した初年度、会社は創業以来、最高の売上と利益をたたき出した。しかしそんな中、浮かれ続けたバブル景気も政策の錯誤などもありゆっくりと限界を迎えるのであった。1991年からはその崩壊が始まっていた。

 その1991年9月。KAZの会社は祖父が日本軍の要請を受け、宮城県仙台市にて前身である宮城工業を創業したのが1941年であることから、ちょうど節目の50年目を迎えることになった。専務となっていたKAZに創業50周年の記念事業に取り組むよう厳命が下った。
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叔父が大切にしていたのは人を育てること。その為に、社員たち向けの講演会を開くことという条件であった。その他に何をやるのかはすべて任された。そこでKAZは、これまでの集大成と今後のビジョンを示す意味で50周年記念個展の開催とミニミニ自主映画を公開することとした。すべての記念事業のテーマを『和創良靴』とすることに決めた。『和』には日本らしさと社員の団結という意味が込められていた。
 

取引先や日頃お世話になっている近所の住民やらを招待し、開催された個展には、これも叔父である社長の提案で『BASIC35』という新開発の商品が並べられた。これは靴の長さと幅が7×535とサイズバリエーションを展開した商品である。(現在の当社の代表的ビジネスに成長したカスタムオーダーを開発する際のヒントになった。)自主映画の上映では、今後コンピューター(CADやCAM)を使った生産が主流になって行くという提案を社員が寸劇的に演じたものに仕上げ、笑いを入れながら今後のビジョンを示せた。

 来ていただいたお客様にも喜んでいただき記念事業もひと段落と思っていた矢先、一本の電話がなった。

 当社一番の取引先からの電話だった。

 「ここのところ、売り上げが急に落ちて、在庫が増えて倉庫がいっぱいなんだ。」

 「申し訳ないが、生産調整をするので、来月1ヶ月の仕事の発注が出せないんだ!」

 

バブル経済崩壊し、不況の大波が、当社に押し寄せてきた瞬間である。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編6

帰国後のKAZの話を続けます。

ファクトリーショップでのオーダーの商売での失敗などを経験しながら、今後の会社の将来のことを考えながらも、通常は目の前の仕事に追い立てられるKAZであった。その頃の日本はバブル経済に踊らされ、最盛期を迎えていた。会社の経営状態も万全でもちろん下請けの仕事も順調そのもの、OEMの仕事の中でもゴルフシューズの受注が好調で売上全体の3割までになっていた。その当時はまだ革底のクラシックタイプが主流だったのである。KAZの会社では、ゴルフ用品販売大手のカタログの靴のページのトップを飾る高額な靴の多くを製造していた。価格は5万円程だ。そして次なる要求は、いかに高い靴に仕立てることが出来るかであった。なのでウミガメの革(ワシントン条約で制限)を使って10万だとかオーストリッチで30万~50万とか意味もなく高いものを作ることになった。何故か、土地を転がして莫大な利益を得た客が商品を見もしないで「一番高いものをくれ」と言っていたからだ。そんな風に日本全体がバブル経済に踊らされていた時代である。

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この時期は、洋服にしろ靴にしろ金額もさることながら量的にも売れた時代だ。バーゲンになれば、一人で5足も6足も買っていく。『足が何本あるんですか?』『もしかして靴屋さん?』と言いたくなるほど皆が、平気で買っていく、まさにバブル経済だったのだ。

この頃は、円高の影響で日本人はブランドものや高級品を買い漁っていたので、海外からは、お金持ちの国日本は重要な輸出先と目されるようになっていたのだ。靴業界の展示会も派手に行われており、ヨーロッパ各国からの出展があった、幕張メッセで行われた総合展に英国メーカーのコーナーが作られることになった。バーカー社の靴の輸入に一役買うつもりになっていたKAZは、勇んで駆けつけ会期中は、終日バーカー社の小間で手伝うことにした。英国からは、バーカー社をはじめ、トリッカーズ社、チーニー社、サージェント社、などが出展しており、KAZは英語もろくに出来ないくせに各社の通訳までしなければならなかった。残念ながら、会期中バーカー社では、1足も注文が取れなかった。原因は、為替の影響で大分安くなっているとはいえ、やはりバーカー社の靴はまだ価格が高かった。まだ高級靴といえばイタリア製のブランドもので英国製ので名前が知られているとすればチャーチ程度、本格的な靴の需要はあまりなかった。但し、ファッションとしての感性に磨きをかけているセレクトショップのバイヤーなどは、トリッカーズの小間に押し寄せ、比較的価格のこなれているチーニーやサージェントの靴には注文を出していった。KAZは、この結果に長い間、提携によるブランド生産をしてきてそのブランドを広めることの出来なかった我が会社の責任と肩を落とすのだった。

 

補足 この英国からのセールスマンの滞在中、アテンドをする立場として、夜の食事の場所などのも案内することになった。考えた末、一日目はしゃぶしゃぶ、二日目は焼き鳥にした。英国滞在中に英国人の味音痴ぶりには辟易していKAZなので、「なんだこれ?食べられるもんじゃない!」とか言い出すんではとハラハラしていたが、両方とも大好評だった。彼らはその後も何度か来日したが、毎回同じところに連れていって欲しいとせがまれるほどのお気に入り料理となった。

また、彼らに驚かされるのは、そのタフネスぶりであった。60歳前後の面々なのだが、靴のサンプルの入った大きいスーツケースを2個と滞在中の私物の入ったこれまた大きいバッグを肩から掛けて、どこにでも自ら運んで移動するバイタリティーがあった。体力に自信のないKAZは、「このぐらいでないと世界では戦えないな!」と感じた瞬間であった。

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編5

350pxzunftwappensvg_3 ヨーロッパには、ギルドと呼ばれた商工業者の職業別組合がありました。古く英国ではその点で、靴を作る人の呼びかたとしてコードウェイナー(Cordwainer)とコブラ―(Cobbler)の2種類の分け方をしていたようです。どう違うのかというと前者は新しい革から新しい靴を作る権利を有している人たちであり、後者は靴の修理を主な仕事にしており、もし作る際も使い古した革、つまり何かをばらした革などなら靴を製造しても良いという制限をつけていたらしいのです。(確かではありませんが、職人たちの権益の匂いがします)

ドイツのギルドの紋章で左上が靴屋



今は別の学校に吸収される形で閉校されてしまいましたが、ロンドンにはコードウェイナーズ・テクニカル・カレッジという名の、靴の学校がありました。これまた今は靴の仕事は止めてしまったのかパトリックコックス(この人の靴好きでした)や今も現役で活躍しているジミー・チューなどの靴のデザイナーたちを輩出しています。

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KAZが英国に渡った頃にヨーロッパに靴の勉強に行く人がいるとすれば、やはり靴メーカーの社長の子息がいる程度でした。KAZの前にやはり英国のどこかで靴を学ぼうとした人は、どうやら靴の勉強は途中で止めてパンのおいしさに惹かれパン屋になった人がいるとの話があります。つまりその当時までは珍しかったのです。

ところがその後、状況は一変しました。その先陣を切ったのがギルド・オフ・クラフツを主宰するかの有名な山口千尋氏です。彼はなんとKAZの帰国した1986年に英国に渡り、1987年からコードウェイナーズで学んだあと1991年までの5年間、英国に滞在して靴工場で働きながら学び、最終的には日本人初のギルド オブ マスタークラフツメンツという称号まで取得した方です。靴メーカーの息子とかではなく、自ら靴作りという職業に、それも若い時から目標を定め、着々と歩みを進めて来た方です。(KAZとは格段の違いです)帰国後、まだ時代が追い付いていなかったこともあり、すぐにビスポークの道に進むことはできなかったようですが、やがてその時代が到来するや否や、やはり先陣を切ってそのビジネスの展開を始めました。

彼の後に続けとばかり、同じコードウェイナーズ出身の柳町氏、大川由紀子さん、卒業後にKAZがいたバーカー社勤務の後、ジョンロブで長年パターンナーを務めている黒木氏、更には、やはり英国の靴学校であるトレシャムインスティテュート出身の福田氏、さらにイタリア・フィレンツェのロベルト・ウゴリーニ氏の元で学んだ、神戸の鈴木氏、福岡の清角氏、フィレンツェの深谷氏など数えきれないほどの若者が現在ビスポーカーや靴の作りてとして活躍しています。このようにヨーロッパで靴作りを学び凱旋帰国した人や国内で地道に腕を磨き上げた人も含め、現在の日本には100店舗ほどの靴のオーダーメイドの店が出来ました。

KAZは近い将来必ず『世界で素晴らしい靴を作るのは日本人だ!』と言われる日が来ると言います。いやもうすでに来ているのかもしれません。その理由は、日本人の職に対する考え方だと言います。

手に職を付ける。つまり技術を身に着けるということ。

決してお金が中心ではなく、情熱をかけて作った道具に美的な感性と機能性を持たせること。

その作り上げたものを通じて使用してくれる人に幸せを感じてもらいたい。

自分の一生をかけてそれらの価値を見つけようとするストイックなまでの追及心。

そういった特殊なDNAを持つ人種が日本人なのかも知れません。

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編4

 Photo_2 KAZは、ファクトリーショップ『タフ』1号店の初代店長に就任した。(後にも先にもここ一店舗しかないのに1号店とはこれ如何に)

 ショップを作ったはいいが、KAZは、困っていた。当時の会社は、完全な下請けが6割で残りの4割は相手先ブランドの生産、つまりOEMである。自社商品がないのだから売るものがないのである。売るものがないのにショップを開いてしまうあたりが、おバカなKAZらしいところでもある。まずは形からなのだ。メンズライクな女性ものなら若干作ってはいたものの所謂レディース向けという商品も手掛けていない。ショップとなればお客さんの半分は女性なわけで、その人たちにも売るものがない。取り敢えず女性向けのエレガントな商品は仕入れすることにした。そして主力の男性用は、出荷前のOEM商品を一時借りてショップに並べ、出荷時期が来たら、また別の商品に切り替える作戦である。一応、店らしい格好にはなった。しかし、問題は仕入れた女性向けの商品は良いとして、主力の男性には何を売って商売をしようとしていたんだ?という疑問。

そこは、商売上手のKAZです。男性のお客さんが来たら、取り敢えず並べてある商品を見せておきながら、

「申し訳ございませんが、こちらは販売出来ないんです」とまず言う。するとお客様は

「はあ?・・・」するとすかさずKAZは、

「もしよろしければ、私がオーダーでお客様のお好みの一足をお作りいたしますが?・・・」

という商売である。つまりオーダーメイドの商売である。

 

結論から申し上げましょう!

このオーダーメイド商売の商売は、大失敗に終わりました。

・・・・「あ・あ・悲しい」・・・・

今になれば「ああ、そういうことね!」と合点もいくのだが・・・。

当時のKAZは、せっかく英国に靴作りの修業に行っていたのに、英国のビスポークという概念のことを全く知らなかった。滞在中に何度もロンドンを訪れてもいたのに、結局、セント・ジェームス宮殿前のビスポークの老舗ジョンロブ・ロンドンの前を通り過ぎたことはあっても店の中に入ることもなかった。何だろう?敷居が高かったせいもあるが、興味がないというか?別次元の店であり、学ぶべき対象とは考えていなかったのだ。但し、この店は、『英国王室の御用達でオーダーで靴を作るんだが、1足目では、ぴったり合う靴にはならず、最低3足は作らないといけない』らしいという変な情報だけは、知っていた。KAZが、学ぼうとしていたのは、工場生産の靴であり、量産靴のデザインだったりブランディングであったりが中心と捉えていたのだ。

ビスポークという語源は、『Be spoken』から来ているという人もいるぐらい、お客様と作り手がお互いに話し合いを十分行って、お互いに納得した上で、実際に靴の制作にかかると言われている。だから出来上がってから言ってない&聞いてない等のクレームが起きないようにしてあるのだ。これから作るもの=まだ形のないものを創造&想像することは、お互いに難しい。作りてはお客様の頭の中身を完全に理解するのは無理なわけでその逆もしかりなのだ。だからこれでもか!というぐらいにコミュニケーションをしないとクレームの嵐になってしまう。

もう分かって貰えたはずです。KAZの場合、このコミュニケーションを十分に行わないでオーダーの商売を始めてしまったのです。

KAZの頭の中はこうでした。お客様が来る。デザインの要望を聞く。革を選んでもらう。足を測る。すると「OK!後は私に任せてください!」と言って自信満々。価格もその当時でも破格の2万円~3万円。この価格でオリジナルの靴を作って上げてやる。でもラストを削るほどではないから、工場にあるラストの中から適当に合いそうなのを選ぶ。パターンは得意。多少足に合わなくても、それはジョンロブ・ロンドンでさえ1足目からは合わないと言ってるんですからと開き直る有様。こんなんだったんです。

「でもね!お客様の半分以上はすごく喜んでくれたんですよ!」

「その場で、もう1足作ってという人もいました!」

「でも、半分近くの人が、店で怒り出すんですよ?」

「こんな靴、注文した覚えがない!ってね!」

「こんなにカッコよく!それもこんなに安く作ってくれるところ、ありませんよ!ってね」

「これが、分かってくれないんだよなー!」

 

こんな考えだから失敗したんですよね!

 

To be continued

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編3

Photo_2  新しい工場の落成記念セレモニーに出席し、日本に帰国したKAZは深く考えなければならない事がありった。当時KAZの会社(もちろん宮城興業のことですが)で作っていたバーカーブランドの靴は、ただそのブランド力を利用して販売に繋げようとしていただけの代物。KAZにとって、製品の出来としては、まったく満足出来る物ではなかったのである。そしてKAZが、バーカー社で作られているものに負けじと作った完全コピーを目指した靴は、完成はしたものの、結局英国で作られた製品をそのまま輸入したほうがはるかに安いということまで判明してしまったのである。この時点で、KAZの気持ちは、またしても相当落ちてしまっていたのです。夢をもって英国に渡り、苦労しながらも何とか乗り切った。そして凱旋帰国とまではいかないまでも、そこで学んだ経験と知識を宝物のようにして帰って来た。そして父親が経営する会社に新風を巻き起こそうと張り切っていた。しかし、現状を考えると『英国で学んだことがまったく役に立たないのではないか?』と考えはじめていたのであった。

 悩みに悩んだ結果、KAZが出した結論はこうであった。今後、いっさいバーカーブランドの生産と販売を取りやめること。そして今後は、英国のバーカー社で作られた製品のみを本当のバーカーブランドとして日本国内で売れるように努めること。

 たまたま、当時のKAZの父親が経営する会社の状況は大手からの下請けの仕事が順調でバーカーブランドの靴の生産や販売はわずかしかなかったこともあり、それに頼る必要もなかった。そんな訳で父親も「お前がそう思うんなら仕方がない」と簡単に同意してくれた。

 バーカーブランドの件は落着したが、肝心なことは解決していなかった。それは、今後会社が目指すべき方向のことである。

確かに現在の経営は下請け仕事が潤沢で安定している。

父は更に下請けの比重を上げた方が良いと考えているようだ。

本当にそれでいいのか?下請けに甘んじることが悪いわけではないことは分かっている。

自社商品だけで現在いる160名の従業員を養っていけるほどの実力などもちあわせてもいない。

でも万が一、親会社から仕事を貰えないような事態が生じたらどうする?

更に、以前から議論されている自由貿易に移行したらヨーロッパからの輸入品が大量に入ってくることになる。

このままの仕事を維持していくだけで、その時になって本当に戦えるのか?生き残っていけるのか?

 残念なことに、まだこの時のKAZには、これらの問題に対してどうして行けば良いのか?

という明確な答えは持ち合わせていなかった。

 但し、その答えを見つける為にも、少しだけ一歩でも半歩でも前に向かって歩き出す必要があった。

ある日、父親に切り出した。

「工場の前に小さくても良いので店を出させてください」

こうして宮城興業の工場前にファクトリーショップ『タフ』が開設されることになった。

 

To be continued

 

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編2

年が開けて1987年になると、ウイリアムからKAZ宛に5月に建設中だった新社屋のオープニングセレモニーを開催する旨の招待状が届いた。行かないわけには行かない。KAZは、社長である父親と出かけることにした。たまたま同じ時期にイタリアのミラノで靴の展示会があり、業界でその視察ツアーが企画されており、その間だけツアーから抜け出すことも可能ということだった。かくしてKAZと父親のヨーロッパへの珍道中が始まった。 

 KAZが予想していた通り、純日本人の父親は、最初の目的地のホテルに着くなり「だめだ日本食を食べないと力が出ない」とか言い始めた。日本をたってまだ1日も経過していないのにである。早速、湯沸かし器をフロントから借りてきてレトルトのごはんとみそ汁を作らなければならなかった。

 バーカー社には、セレモニーの前日に入った。ウイリアムをはじめ、スタッフとの半年ぶりの再開である。前夜祭には、世界中からバイヤーや関係者が集まった。その場で、発表されたのは、明日のセレモニーのメインゲストが、なんとなんとエリザベス皇太后だということだった。発表後にウイリアムからKAZに伝えられたのは、「貴方たちは、日本からはるばる来てくれた特別なゲストだから、皇太后をお迎えする際は、玄関脇に並び、お言葉を頂戴する役を引き受けてほしい」というものだった。父親の方は、意味もわからずのほほんとしていたが、KAZにしたら一大事だった。日本でも園遊会に呼んで貰える機会など120%ないのに、なんと英国王室の皇太后陛下から直接のお言葉ですから、それゃ、びっくりです。

 早速、ウイリアムの家まで行ってレズリーにその場合の礼儀作法をレクチャーしてもらうことに。すると

「まず最初の質問に対しては・・・何々です。Your majesty.と答えなさい」

「その次からは・・・何々です。Ma’amでいいんですよ」と教えられた。

Your majesty』(ユア・マジェスティ)とは陛下ということであり、

Ma’am』(マーム)とはマダムの英国流の言い方で目上の女性に使う言葉であった。

 KAZの方は、練習すればなんとかなるが、問題は父親の方である。何度も教えるのだが、要領を得ない。さらに時差ぼけまで人前で居眠りまで始める始末である。レズリーがそんな父親を見かねて「今日のところはこの辺にしてゆっくり休んだ方がいいわよ!」と気遣ってくれたのでした。

 いよいよセレモニー当日です。新社屋の周りには、市長をはじめ街のお歴々の方たちや世界各国からの招待客でごった返しています。大きなホールには、その日特別にケータリングで用意された、たくさんの料理や飲み物が持ち込まれていました。招待客が全員着座するとウイリアムが壇上に立ち、主催者のスピーチを行いました。理由は分かりませんが、静かな声で抑揚もありません。もちろんマイクは通していましたが、KAZはこのスピーチ、一言も理解出来なかったのでした。心の中で、『滞在中とは、全然違うしゃべり方。あれでKAZにも分かるように話してくれてたのは、大分苦労してたんだろうな』と改めて思ったのでした。

 午後になり、主賓のやってくる時間になりました。上空からヘリコプターが飛ぶ音がけたたましく響いてきました。近くの教会の裏手の広場に着陸するということだった。玄関先で出向かる予定のメンバーの緊張が一気に高まった。そしていよいよその時が来たのです。

 玄関先に皇太后陛下を乗せたリムジンが到着した。案内役はもちろんウイリアムが務めている。大きなドアが開かれると白いドット柄の入った青紫のワンピースを身にまとったエリザベス皇太后が軍服姿にサーベルを腰に差した侍従を従え、歩きだされました。するとその場が一気に花の匂いに包まれたような空気に変わりました。非常に高貴な香りに満たされたのです。

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一番最初に市長にお言葉をおかけになり、次にはメインのゲストたちの番になりました。そしていよいよKAZと父親の番になりました。その時事件が起こったのです。普通の流れからすれば陛下からお言葉がかけられ、それに丁寧に答える。そういう流れなのだが・・・。なんとKAZの父親は先手を打ったのだ。それも・・・。

「どうも!どうも!」とやらかしてしまったのです。それも大変にこやかに。めっちゃ大きい声で。ホント、その辺のお友達と久々に会う感じのフレンドリーな感じで。

陛下は一瞬、たじろいだかに見えたが、そこはさすがに高貴さと品性を持ち合わせ、さらに場慣れもしていらっしゃるお方。我々凡人とは違う貫禄。父親の方はサラリとかわし、KAZの方を向いて言葉をかけた。

「日本からいらしたの?」と。KAZは練習通り「Yes,Your Majesty!」と無難に答えて難局を乗り越えた。

 この時の写真は、翌日の地元の新聞にでかでかと取り上げられることとなった。そう、その日以来、KAZたち親子は、英国では『サー』の称号をもらったと同じ格を持つ日本人となったのである。(うそつき!)

51ao3y0yeol_2 参考までに 

このエリザベス皇太后陛下は、エリザベス二世(現・英国王、女王陛下)の実母であり、前国王のジョージ6世の王妃であったお方である。ジョージ6世の兄のエドワードが離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリスとの結婚を選び退位したスキャンダルは有名。ジョージ6世は生来病弱なうえ吃音や足の障害もあった。これらの事実を映画化したのが『英国王のスピーチ』。吃音を克服しながら英国民に語りかける国王に感動。是非ご覧いただきたい映画です。

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KAZの靴の聖地・漂流記、帰国編1

 この拙い文章を読んでくださっている方々は、賢明な方たちですので、すでに百も承知であることは、合点承知の助でありますが、改めて発表します。

『KAZは』などと三人称を使っておりますがKAZ=自分のことです。

そんなの疾うに分かってるって!ハイそうでした。

 でも何故三人称にしなければいけなかったか?KAZの気持ちを考えたことはありますか?そうです、そこが問題です。そして普通に『滞在記』でよいものをわざわざ『漂流記』とした訳をもう少しお話させていただければと思っているのです。そんなことで英国から帰国してからのKAZの話を続けます。
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 KAZが英国から帰ってきて1番初めにしたことは、近くの薬局に行って白衣を買ってきたことだった。KAZらしく、まずは格好からということでした。完全に英国流にかぶれていたのです。親父が経営する会社に戻り、工場の中を白衣の裾をひるがえして歩き、各工程の職人たちには聞いてもいないのに得意げに「英国ではこうするんだ!」と言って回り、ベテランの職人を白けさせていたのです。取締役会でも、「いつまで下請けに甘んじてるんですか?いつ仕事を切られるかわからないんですよ!」とか、人の意見に対しても「だから駄目なんですよ!」と発言し、「じゃあ、どうすればいいんだ?」と聞かれると、実は具体的な改善策など持ち合わせもていない。「本場の英国ではこうでした!」と答えるのが関の山だったのでした。

社長である親父にも「お前変わったなあ!」と言われる始末。この『変わった』発言は決して良い意味で使った言葉ではありません。父親からすれば、大人しくなんでも言うことを聞いて、可愛いかったはずの我が息子が1年間の英国生活で変に生意気になって帰って来た、つまり悪く変わったということなのでありました。

社員たちからも完全に浮き上がった存在になっていました。もちろん誰も面と向かっって直接何か言う人はいなかったのですが、蔭では『あのバカ息子』という囁きは上がっていたのでした。KAZは、そいな雰囲気が会社に漂っていることは重々感じてました。しかし、敢えて気に留めないようにしていたのです。『自分が悪いんじゃない!自分の成長を認められるのには時間が必要だ!だって自分だいぶ先行ってるし!』と思っていたのでした。1年間で完全に英国にかぶれ、英国第一、英国原理主義者と化していたのでした。

 

 次にKAZが取り組んだのは、『バーカー社で作っている靴そのものずばり』を作ることでした。その為には、材料すべてを英国から取り寄せる必要がありました。残念ながら当時の日本では、同品質のものを調達することは出来なかったのです。ラスト(靴型)を削り、パターンを作り、すべて本家バーカー社の英国流で作ってみました。ほぼ満足いくものが出来たのです。KAZは出来上がった靴を「これが本物ですよ!」言って、みんなに見せては自慢していたのです。これで少しは自分を見直してくれるだろうと悦にいっていたのです。そして早速、量産して販売に繋げようと見積をしてみたのでした。驚愕の結果が出たのです。なんと英国バーカー社で作った靴をそのまま輸入した場合の1.5倍の価格になっていたのでした。

 

補足 英国の通貨はポンドですが、大英帝国時代は基軸通貨でした。今はその座をドルに奪われてしまいましたが、1964年までは、固定為替で1ポンド1,008円だったそうです。KAZが滞在していた1985年から1986年当時は360円程でしたが、その後は円高が続き数年後には240円程度になっています。一方、日本はバブル絶頂に向かっている時期でもあり、人件費なども世界最高水準に達していました。オックスフォード大に客員教授として招かれても年俸が安くてとても行く気になれないという人が出るほど為替が大きく変動していた時期です。なので靴の見積の件も為替の変動が多きく影響しています。

 

To be continued

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2018年仕事納め&ごあいさつ

 本日は、今年1年の締めくくり、仕事納めの日です。
日頃より、当社製品をご愛顧いただいている皆様、そしてまだ当社製品は一度も買ったことがないが、いつか購入しようと興味深々、時々当社HPをチェックされている皆様、そしてさらにさらに私の拙いブログを愛読していただいている数少ない皆様、本年も大変ありがとうございました。加えて、まもなく訪れる1919年・平成31年・まだ分からない新元号元年が皆様にとってすばらしい年になりますことを心よりお祈りいたします。
 さて、今年の当社にとって良いニュースをまず振り返ります。
今年は、海外戦略元年と位置付け、1月よりパリの個展に出展しました。東京のワールド・フットウエア・ギャラリーの深田社長の声掛けで、JSEP(ジェーセップ)という組織を立ち上げました。日本の靴も負けていられない!輸出するぞーという意気込みです。このパリでの個展をはじめ、ロンドンのトランクショーやミラノで開かれるミカムという靴の展示会にも出展しました。お陰様で、当社自慢の既成靴であります「ミヤギコウギョウ」ブランドの靴が、初めてヨーロッパで発売することが出来たのです。ヨーロッパのどこでしょう?なんとノルウェーです。「え?ノルウェーって北欧で雪国でしょ!革靴履く期間ってあるの?」という声が聞こえてきます。ハイ、実は私もそう思っておりました。しかし、現実はちがいますよー。皆さん「ボーと生きていては駄目ですよー!」ノルウェーの一人当たりの所得は世界でもトップクラス。そうお金持ちの国なんです。そして靴好きの人も多いんだそうです。ということでバンザーイ!
カスタムオーダーで、すでに6ヶ国の国に輸出をしておりますが、ヨーロッパは初めてなので、とてもうれしいです。来年2月には、日本とEUの経済連携協定がいよいよ発効され、今後10年かけて関税がゼロになります。てなわけで日本の靴業界は大変になります。輸出力をつけてこそ生き残れる会社になる。その意気込みで来年も臨みます。
 一方、日本の市場は相変わらず絶不調です。また売り上げを落としてしまいました。こちらはあまり良いニュースでないのでここまでとします。
 最後に、この12月に一気に33話にもなる私の英国滞在記をアップしました。バンザーイ。読者が少ないことは初めから予測していたので落ち込んでなどいません。なので年明けから早速、帰国編をまたまたアップします。バンザーイ。
締めくくりは、まじめに
よいお年をお迎えできますように!

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KAZの靴の聖地・漂流記XXXIII

この滞在記も綴り続けているうちに33話目になってしまいました。ごく一部の人しか読んでいただけていないのは合点承知の助ではありますが。そんなことで今回を持って最終話とさせていただきます。

198610月となり、いよいよKAZの帰国の時となった。つらく厳しい1年間だったがそれ以上に収穫の多い1年間でもあった。到着4日目に逃げ帰ろうとしたことも、半年後には極度のホームシックにもなり軽度のノイローゼにもなった。でもそれを乗り越えた今になれば、それも良い経験だった。

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バーカー社内のすべての人たちに感謝とお別れの挨拶をし、記念写真などを取り、またお別れと激励のメッセージなどをもらった後、いよいよ本当の別れの時が来た。KAZが長い間お世話になったゲストハウスの前で送別の時が訪れたのだ。

ウイリアムが毎日飲んでいるベルのウイスキーを持参してきた。KAZのコップにそのウイスキーがなみなみと注がれた。KAZの瞳には、すでに涙が浮かんでいた。ウイリアムも貰い泣きしたのか目は真っ赤になっていた。集まってくれた仲間は一同に言葉が少なかった。もしかすると、「poor KAZ」(かわいそうなカズ)がいつ逃げ帰るのかと心配していた仲間が、よく1年間持ってくれたとの感慨に耽っていたのかもしれない。

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空港まで送ってくれるロールスロイスがいよいよKAZを乗せて走り出す瞬間となった。仲間たちが口々に「負けずに頑張れよ!」「元気でな!」「また会おう」と声を掛けてくれた。KAZは言葉を発することが出来ず夢中で手を振込り続けた。

 


KAZは、このあと空港までの1時間、声を出して泣き続けた。

人生であれだけ泣いたことはないという。

涙が1リットル以上流れたともいう。

無我夢中の時もあった。辛かった時もあった。

望郷のあまり英国を恨んだときもあった。

しかし、代えがたい経験をした。

日本にいるだけでは決して出来なかった経験だった。

それらすべての経験がKAZを鍛えてくれた。そして少しだけ大人にしてくれた。

 

英国よ、ありがとう!靴の聖地ノーサンプトンよ、ありがとう!

ウイリアム、レズリー本当にありがとうございました。

バーカー社の皆さん、お世話になりました。

空港についても、目をはらしたまま、言葉も発せられずにいたKAZ。

1年前に空港まで迎えに来てくれて、今回の帰国の際に運転をかってくれたフレッドはそんなKAZを静かに見守り、見送ってくれたという。

KAZの靴の聖地・漂流記 了


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KAZの靴の聖地・漂流記XXXII

 KAZは英国滞在中、社内だけの研修に限らず様々な経験を積む機会に恵まれた。ウイリアムに同行しドイツのピリマゼンスで行われる製靴機械の見本市、イタリアでは、フィレンツの市場調査とミラノで開かれる靴の見本市、またボロ―ニアで開かれていた靴の素材の見本市などであった。英国国内の見本市ではノーサンプトンの靴メーカーが一同に会し、クロケット&ジョーンズの先代ジョーンズ社長に紹介してもらったのはいいが、靴を眺めていたら、『こらこら、日本人!うちのデザインを盗むんじゃないぞ!』と言われたこともあった。

 その他、どこのメーカーも使っているラスト(靴型)メーカーであるモブスミラーには2日間通い、今は廃業してしまったが、当時バーカー社が主力で使っていた革のタンナーであるペボディ社では3日ほど研修させてもらった。ここで作られていた革は上質でノーサンプトンのメーカーはもちろんアメリカのグッドイヤーの靴を得意としているメーカーでも使われていた。革が出来上がるまでの期間が2ヶ月以上もかかることにも驚かされた。鞣したあとの乾燥では、いったん木屑の中でゆっくり休ませるといった手間を惜しまない昔ながらの製法を守り続けていたのだ。残念なことは、近年このように上質な革を作る所が、次々に経営が成り立たなくなり倒産や廃業に追い込まれているという現実だとKAZは嘆く。

 英国には問屋業は存在しないと思っていたのだが、実は巨大な問屋が存在していた。その名はブリティッシュ・シュー・コーポレーション。ここの倉庫に連れて行かれた時にはKAZは度肝を抜かれた。なんと商品を運ぶコンベアーの長さが30km、コンピューターで伝票の管理をする人が300人もいるのだ。1週間で200万足の靴を出荷しているという。国内はもちろん世界中から靴を買い付け英国国内の3分の1にあたる店舗に納めているという。まさに物流を効率化して成り立っているところだった。

 靴好きなら誰でも知っているクラークス社でも3日間研修させていただいた。この会社は、『靴の王様』と言われた創業者バータ氏率いるバータ(BaTa)社と規模的には世界で一二を争う大企業だ。こんな逸話をご存じだろうか?昔この2社の営業マンがそれぞれアフリカの市場を調査する目的で現地を訪れた。一方の営業マンは「駄目です。未開の地でまったく市場にはなりません」と報告、もう一方は「すごい市場です。だって誰一人、まだ靴を履いていないんですから!」と報告したと。KAZの予想では、前者がクラークス社で後者がバータ社だと言う。その後、バータ社の方は、アフリカの奥地にビーチサンダルの工場を立ち上げているそうだ。

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クラークスの量産工場

 

このクラークス社では、KAZはこんな経験をしている。案内をしてくれた担当者が、

「あなたの所ではどんな靴を作っているんですか?」と質問してきた。

「グッドイヤー製法がメインです」とKAZ。すると

「グッドイヤー?グッドイヤー?どこかで聞いたことがあるなー」と考えこむ担当者。

こいつグッドイヤー製法も知らないド素人なの?とKAZが訝しんでいると

「あっ、分かった!当社の博物館に展示してあるあの機械のことか?!」と。

どうやらこのクラークス社の担当者のあれだけ手間のかかるグッドイヤー製法で、今でも作っているんですか?と茶化すつもりの子芝居だったようだ。その後、KAZが見学させてもらった工場も自動化出来るところはすべて自動化され1日で五千足を生産出来るハイテク工場だった。

 

 ちなみにクラークス社は、革靴に限らず、それこそビーチサンダルやゴム長靴も作っており、革靴メーカーという認識よりも履物全般を製造している企業と捉えた方が正しい。日本で言うと九州の久留米にある㈱ムーンスターやアサヒシューズ㈱のような会社である。人間の手を一切掛けなくても機械だけで出来る靴の開発に本気で取り組んでいたりする。手作りをバカにされたのでムッと来て「絶対負けないぞ!」と思ったのですが、反面参考になる考えだとも思ったのでした。事実、この10年後にクラークス社のネイチャーシリーズにインスパイアされて開発したのが、当社の代表的商品STリラックスになるのです。この開発秘話についてはまた後日。

 

To be continued


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